日の出



 大晦日の午後。
 突然栞から電話で呼び出された俺は、自分の耳を疑った。
「これから海に行きましょう」
 にこやかにそんな事を口走る栞。
「海?」
「海です」
 思わず、その額に手を当て、熱がないかを確かめる。
「大丈夫か?」
「…そんな事いう人、嫌いです」
「…今は真冬なんだが」
「誰も泳ぐなんて言ってません。海を見に行きませんかって言っただけです」
 そりゃそうだろう。
 今年ももうすぐ終わろうかという時期、こんな豪雪地帯で寒中水泳なんて普通死ぬぞ。
 大体、泳ぐ泳がない以前に、海岸は死ぬほど寒いと思うぞ。
 何しろ、風を遮る物がないからな。
「好き好んで風邪をひきに行く事もないと思うんだが」
「大丈夫です。風邪薬ならいっぱい持ってますから」
 いや、そういう問題じゃないだろ。
「でも、何でこんな時期に海に行きたいんだ?」
 それに今からじゃ着くのは夜中か、ひょっとしたら明日の明け方になるんじゃないか?
「初日の出を見に行きたいんです」

  ***

 駅で電車を待ちながら、俺は最後の抵抗を試みていた。
 二人とも一度家に戻って色々と必要そうなものを持って来てはいる。
 だがそれだけ準備していても真冬の海辺の寒さを考えると、どうしても抵抗感が先に立ってしまう。
 日のある内はまだ良かったが、日が暮れて寒さの増した今、日の出前の浜辺という言葉だけで風邪を引きそうだ。
「海なんか凍ってるかもしれないぞ」
「うわぁ、そんなの見た事ないです。楽しみですー」
「きっと死ぬほど寒いと思うぞ」
「お姉ちゃんに貰ったストールがありますから大丈夫です」
「他に誰もいないかもしれないぞ」
「二人きりの浜辺なんてロマンティックですー」
「キタキツネも凍ってるぞ、きっと」
「それはちょっと可哀相ですね。ホカロン、分けてあげましょうね」
 そう言えば…。
 栞は寒さには異常な迄の耐性を持っているんだった。
「実は俺、体弱いんだ。風邪ひいたら寝込むかも」
「大丈夫です。風邪薬なら持ってます」
 そう言ってポケットに手を伸ばす栞。
「いや、それは判ってるから」
「じゃあ、もしも風邪を引いたら私が看病してあげます」
 …そりゃ魅力的な提案だ。
「しかし、本当に行くのか?」
「はい。あ、電車来ましたよ」
 無常。
 何となくそんな言葉の意味が分かったような気がする大晦日であった。

  ***

 ボックスシートには二人だけで座る。
 電車はかなり空いているから、好き好んで俺達の邪魔をしに来る無粋な奴もいないだろう。
 ガタンガタン。
 電車の音。
 二人で電車の中、電車の音を聞きながら、窓の外を流れる闇と白い景色を見つめる。
 その間終始無言。
 言葉が要らない。
 多分、それはこういう状態なんじゃないかな。
 繋いだ手の温もり。
 時折交わす視線と微かな笑み。
 それだけで分かり合える。
 こういうのも良いな…そんな事を考えていたら。
「栞ちゃん、ミカン食べる?」
 唐突に聞きなれた声。
 振り向くと椅子の背もたれの上から、ミカンを片手に名雪が覗き込んでいた。
「名雪?」
 なんでこんな所に…。
「あ、名雪さんこんばんはー」
 満面の笑顔で挨拶する栞。
「私もいるわよ」
 名雪の横から見知った顔が出てくる。
「…香里もか」
 そしてもう一つの見知った顔。
「祐一さん、私もご一緒しても宜しいですか?」
 秋子さんまで。
 …そう言えば荷物を取りに家に戻った時、二人ともいなかったっけ。
「一体、どうして…」
 と、言いかけて栞の方を振り向く。
「…あの、ですね」
 やっぱりそうか。
「…計画的犯行か」
「そ、そんなこと言う人、嫌いですぅ」
 妙に慌てた風にそう言う。
 それじゃ、思いっきり自白しているようなもんだろう。
「ちょっと相沢君。人の妹を犯罪者にしないでよ」
「…まあ、犯行ってのは言葉のあやだけどな。みんなで来るならそう言ってくれれば良かったのに」
「あれ? 祐一は聞いてなかったの? 私と香里とお母さんは、何回か一緒に初日の出を見に行ってるんだよ。こんなに遠出するのは初めてだけどね」
 不思議そうな表情で訊ねてくる名雪。
 横を向く香里。
 いつも通りの笑顔の秋子さん。
「なるほど。主犯は香里か」
「あら、相沢君って思ってたよりも鋭いわね」
「どういう意味だ?」
「言葉通りよ」
 ふふん。と香里に鼻で笑われてしまった。
 美人てのは、こういう事をやっても絵になるからずるい。
「…しかし、名雪まで来てるけど、大丈夫なのか?」
 初日の出を見るためには寒い中、朝日が昇るまで起きていなければならないんだが。
「うん、大丈夫だと思うよ。今年も寝袋、持ってきてるし」
 なるほど、網棚の上の大きな荷物はそれか。
 起きて待てないって事は認識してるんだな。
「今年こそ、初日の出見るんだから」
 …さっき、何回か見に行ってるって言ってなかったか?

  ***

『…ピッ・ピッ・ピッ・ポーーーーン』
「「「明けましておめでとうございます」」」
「うにゅぅ…」
 ラジオの時報と共に、約1名を除き新年の挨拶が交わされる。
 その約1名は、既に起きている事を放棄して、封筒型の寝袋を開いて毛布代わりにしている。
 名雪の眠るボックスシートの隣で、俺達はのんびりトランプなんぞをしていた。
 最初はばば抜きでも。と思っていたのだが、香里はともかく、驚いた事に秋子さんも、栞までもがポーカーを希望した。
「どうせやるなら、ポーカーの方が楽しいですよ」
「私もポーカー、大好きですぅ」
「言っておくけど、私も栞も強いわよ」
 …シャ、シャ、シャ。軽い音と共にカードを切って行く。
「これ位で良いかな?」
「あ、私も切ってみて良いですかー?」
 横からニコニコ笑いながら栞が手を出してくる。
「ああ、構わないけど…でも大丈夫か?」
 そんな小さな手で…。
 俺は最後まで言う事は出来なかった。
 パラパラパラパラパラ。
 宙を舞うカード。
 栞が取り落としたわけではない。
 手品師顔負けのカード捌きで栞がカードを左手から右手に飛ばしたのだ。
「紙のカードだと、ちょっと難しいですねぇ」
 ちょっと苦笑いをしながら、今度は凄い勢いでカードを切り始める。
「…あら、上手ね」
 秋子さんが感心した様に呟いた。
「二人きりで出来るゲームなんてそう多くなかったですから…」
 栞は小さく呟いた。
 幼い頃から外出できなかった栞にとって、病院や家での遊び相手は香里一人だった。
 だから、一生懸命覚えたんだろうな。
「お姉ちゃんとは大体いつも引き分けなんですよ」
 何がどうなっているのか、目で追いきれない程見事なカード捌きを見せる栞。
 そんな栞を優しく見つめていた秋子さんが、すっと手を伸ばした。 
「でも栞ちゃん」
 栞のストールを捲る。
「…いかさまは駄目ですよ」
 パラパラ。
 3枚のAが舞い落ちる。
「あ、ばれちゃいましたー」
「やっぱりいかさましてたのね」
 じと目の香里。
「あ、あはは」
「おかしいと思ってたのよ。ロイヤル・ストレート・フラッシュとか、Aとジョーカーで5カードなんて」
「…だって、お姉ちゃん強くて…その、ごめんなさい」
 俯き、人差し指を唇にあて、上目遣いに香里を見つめながら栞は謝った。
「いいのよ」
 栞の髪を撫でながら香里は笑った。
「いかさまは見ぬけなければいかさまじゃないわ。でも、もうしないでね」
「はい」
「じゃあ、今度は私が切りますね」
 秋子さんは栞が落としたカードを拾い、カードを切り始める。
「わぁ…」
 栞が感嘆の声を上げる。
「…手が見えないわ」
 風切り音と共に、秋子さんの手の辺りで何かが動いている。
 電車の蛍光灯の下で判るのはそこまでだった。
「配りますから手を出してくださいね」
 言われるままに手を出す。
 その手の平の上に風が舞った。と思ったらカードが5枚乗っていた。
 秋子さんって一体…。
「相沢君」
 つんつん、と香里が俺の膝を突ついた。
「世の中、知らない方が良い事って、あるわよね」
 
  ***

「海です! 祐一さん、海です!」
 窓にへばりついてはしゃぐ栞。
 その向こうには黒々とした海が見えていた。
 黒い海面に銀の波。
 それを美しいと表現するか、恐いと表現するかは個性だろう。
 しかし、栞のそれは、まるで初めて海を見た子供のようだった。 
 俺が思ったままを香里に言うと。
「そうね…言われてみれば、栞が海を見るのはこれが初めてかもしれないわ」
 思い出した様に香里はそんなことを言った。
 なるほど。
 それならこの熱狂振りも納得できる。
 俺は栞の隣に座り、声をかけた。
「なあ、知ってるか。海の水は塩辛いんだぞ」
「むう、そんなこと知ってますよぉ」
 ふくれっつらで、でも笑いながら栞はそう言った。
「海についたらさ、貝殻、探そうな」
「え? 貝殻って本当に落ちてるんですか?」
 パッと目の色が変わる。
 過剰な期待はさせない為、一応、釘をさしておく。
「巻貝のはないと思うけど、ひらたいのならな」
「わぁ、嬉しいですぅ。イルカや鯨は見れますか?」
 …なるほど。
 これは本当に海を見た事がないのかもしれないな。
「…いや、それは多分無理じゃないかな」
「そうですか、ちょっと残念です」

  ***

 東の空が明るくなっている。
 海の色がゆっくりと変わり始める。
 北の海の色は、太平洋の黒く淀んだ青とも、南の澄んだ青とも違う。
 まだ黒が強いが、緑と青の混じったような色に見えた。
 緑は命の色。
 だとすると、この海はきっと生命に溢れているのだろう。
「うにゅ…船酔い、だおー」
 背中で名雪が何か呟いた。
 電車が駅に着いても一向に起きる気配のない名雪だったが、さすがに置いて行くわけにも行かず、こうして俺が背負う羽目になった。
 俺達は、海を見下ろす岡の上から浜辺に下りる道を辿っている。
 一番乗りは栞。そしてその後を追うように香里。
「仲の良い姉妹ですね」
 大きなバスケットを両手で持った秋子さんが楽しそうに言った。
「ええ、本当に仲が良いんですよ。あの二人は」
 そう答える事の出来る今を、本当に嬉しく思いながら俺は笑った。
「祐一さーん!」
 道の先の方で栞が大きく手を振る。
「もうすぐ日の出ですよぉ!」
 名雪を背負いなおし手を振って応える。
 その動きで名雪の被っている毛布がずれたのか、名雪がゴソゴソと動き出した。
「…寒い…あれ?」
「お、起きたか」
「祐一さん、後は私が見ますから、先に行って上げて下さい」
 俺の背中から名雪を下ろしながら、秋子さんは優しい笑みを浮かべた。
「いや、でも…」
 背中から降りたものの、目をこすり、覚束ない足取りで歩く名雪を見ているとどうにも不安だ。
「名雪は大丈夫ですよ。それより、栞ちゃんが待ってますよ」

  ***

「もうすぐですね」
 俺の隣。
 拾ってきた大きな流木に腰掛け、栞は東の空を見つめながらそう言った。
「その台詞、もう12回目だぞ」
「そんなこと言う人、嫌いです」
「まあ、でも確かにそろそろ。じゃないかな?」
 東の空は淡いオレンジ色に染まっていた。
 近くの海の色は、空の明るさのせいで暗くなっているようにも見えるが、遠くの方の色は空の色を映して明るくなっている。
「祐一さん」
 栞は空を見つめながら呟いた。
「ん?」
「私は今、本当に幸せなんです。海を見ることが出来て、お姉ちゃんがいて、祐一さんがいて、名雪さんがいて、それから、明日を信じることができて」
 東の空は、本当にじれったくなるくらいゆっくりと明るくなって行く。
「明ける事のない夜にいた私を、祐一さんは明るい太陽の下に連れ出してくれました」
 ゆっくりと、だけど、確実に東の空の明るさは増している。
「私は、祐一さんのお陰で決して手に入れることの出来なかった筈の物を手に入れることが出来たんです」
 明けない夜はない。
 海が輝きを増した。
「…なんて、ちょっと格好良いですよね」
 にこっと笑う栞。
「バカ。俺は何もしてないって。栞が欲しいものを手に入れられたのは、栞が諦めなかったからだ」
 水平線が光を放つ。
「あ、日の出」
「…今年の始まりだ。栞、今年も宜しくな」
「はいっ! こちらこそよろしくお願いします!」












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後書き。のような物

構想3分。書くのに1時間ちょい。むう、こんな物でも許されるのだろうか(^^;;
昨年はメールに直接添付できるサイズでしたが、今年のは長めなのでHP公開になりました。

と、いうわけで、明けましておめでとうございます
旧年中は大変御世話になりました
今年もよろしくお願いいたします


おまけ:1999年の年賀SS

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