ザ…。
 風が鳴った。
 物見の丘の上。
 大きな木の梢を揺らし、6月の風が吹きぬける。
 舞は眩しそうに目を細め、木漏れ日の零れる梢を見上げた。
 パサパサパサ
 木葉を揺らし小さな茶色が落ちてくる。
 ひょい。と、避けかけた舞は、咄嗟に手を伸ばし、それを受け止める。
 手のひらにすっぽり入るくらいに小さくて、頼りなげに震え、そして暖かくて思っていたよりもちょっと堅い。
「…雀さん?」
 目は閉じている。
 でも、それは舞の手の平の上で小さく震えている。気を失っているみたいだけど、間違いなく生きている。
 手のひらに柔らかい重みと温かさ。
 茶色い足を上にして、舞の手に収まったそれは、今年の春に生まれたばかりの、まだ小さな雀だった。
「雀さん」
 呼びかける。
 でも、雀は目覚めない。
 気絶したままの雀に代わって、舞の隣で眠っていた少女が目を醒ます。
「ふわぁ…あ、舞。おはよ」
 それは少し寝ぼけた佐祐理。
 舞は、つ、と手を伸ばして雀を佐祐理に示した。
「…雀さん」
「あ、どうしたんですか? …生きてますよね?」
 つんつん、と指先で雀を突つく佐祐理。と、唐突に雀が目を開く。
 鳴きもせず、じっと舞の手の平の上で大人しく、少しだけ震えている雀。良く見ると右の翼がきちんと閉じられていない。
「…怪我してる」
 恐らくは脱臼。これでは飛べない。
「ここ、狐さんがいるんですよね。このまま置いて行くと狐さんのご飯になっちゃいますね〜」
 すっと、雀を持った手を、守る様に胸に抱く舞。
「あはは〜。舞、雀のお母さん代わりになるんですか?」
 コクン。小さく。でもはっきりと頷く舞。
「分かりました〜。佐祐理も協力します。取り敢えず、連れて帰りましょう」

  ***

 3人で暮らすアパート…というか、マンション。
 本当は普通にアパートを借りて生活をするつもりだったのだが、佐祐理さんの。
「佐祐理が良い所を知ってます〜」
 の一言でそこに決まった。
 なんでも、家賃が通常の2割程度だったとか。
 最初の内は、壁に人型のシミが浮いたり、家具が揺れたり、変な音が聞こえたりしていたみたいだが、舞がどうにかしたらしい。
 …まあ、深く考えない方が良いのだろう。多分。

 今、俺はそのマンションのキッチンで3人分の朝食を作っていた。
 俺の料理の腕前は、と問われれば、佐祐理さんの腕前には程遠いが、舞には勝ってる………さて、これは喜ぶべき事なのだろうか?
「おはよ〜ございます〜」
「…」
 着替えて洗顔を済ませた二人がキッチンに入ってくる。
「おはよう、佐祐理さん、舞」
 相変わらず無口な舞だったが、今日は無口に拍車がかかっているようだ。
 いつもなら、無言のままとは言え、俺の方を向くのに、今日は完全に無視されている。
「舞、おはよう」
 聞こえていなかったとも思えないが、もう一度舞におはようの挨拶。
「…」
 不自然なくらいに背筋を伸ばしたまま、無視。
 なんだってんだ?
 と、佐祐理さんがくすくすと笑い出した。
「祐一さん、舞の頭、見て下さい」
 頭?
 ……なんだ、あれは?
 良く見れば、舞の頭の上に小さな茶色い物が乗っている。
「鳥…雀か?」
「はい〜、昨日、物見の丘で木から落ちてきたのを舞が拾ったんです」
 木から落ちた?
 ドジな鳥もいたもんだ。
 しかし、なんで頭の上なんだ?
「なあ、舞」
「…」
「おーい」
「…」
 完全無視。
 そっちがその気なら。
「雀かぁ…雀って食えるんだよな」
 食った事はないけど。
 ピクン。と舞の肩が震える。
「良く見ればまだ小さいな。雛の肉って柔らかいんだってな」
 片足を引いて警戒体勢をとり、俺を睨む舞。
 頭の上の雀が、落ちない様にフラフラと動いている。
 …なるほど。これで振り向かなかったのか。
「でも、そんだけ小さいと、一口だな。やっぱり育ててから食べるのか?」
「…祐一、野蛮人」
「はやぁ…祐一さんって、雀を食べちゃうんですか〜?」
 …食わないって。

  ***

「雀、ですか」
 秋子さんは、片手をあごの辺りにあてて、じっと考え込む。
 今、俺達は、くだんの雀を連れて、水瀬家にお邪魔している。
 いや、確証があったわけではないのだけれど、何となく、秋子さんに相談すれば良いんじゃないかって気がしたもんだから。
「あ、やっぱり、分かりませんか」
 そうだよなぁ…普通、雀の治療方法なんて知らないよな。
 なんとなく、秋子さんに相談すれば何でも解決しそうな気もするけど、我ながら子供みたいな発想だよな。
「いえ…脱臼なら関節をはめてしばらく大人しくさせておけば良いのですけれど」
 …出来るんですか、んな事まで。
 いや、頼んでおいてなんだけど。
 すっと手を伸ばし、雀を持ち上げる。
 舞と佐祐理さんが、固定する為に巻いた紙のテープを外し、羽を広げる。
 その間、雀は抵抗らしい抵抗をしないでじっとしていた。
「神経は…大丈夫みたいですね」
 その手元で、パキッ、と小さな音。
 一瞬雀の全身の羽毛が逆立つ。
 秋子さんは、紙テープを巻き直し、舞の手に雀を返した。
「一応、はめておきました。今日は安静にして下さいね」
 …こうして、秋子さんの謎が、また一つ増えた。

  ***

 折角だから、昼食を、と誘われた俺達は、名雪の部屋にお邪魔している。
 幸いな事に、真琴はピロを連れて天野の家に遊びに行っているらしい。
 …あいつらがいたら、雀、本当に食われかねないからな。
 ちなみに佐祐理さんは秋子さんと一緒に料理中である。
 どうも、秋子さんを料理の師匠と密かに尊敬しているらしい。
「雀〜」
 名雪が雀を頭に乗せている。
 …お前って奴は…なんてお約束な奴。
「雀さん…」
 舞が恨めしそうな目で俺を見上げる。
 …俺のせいじゃないんだけど。
「舞の方がお姉さんなんだから、ちょっとだけ我慢してくれ。な」
「…祐一がそう言うのなら」
 表情は納得していない様だが、舞は頷いてくれた。
「しかし、名雪はともかく、なんで舞はあいつを頭に乗せてたんだ?」
「…鳥は空を飛ぶものだから」
 ?
「それはですね」
 と、佐祐理さん…って一体、いつ来たんですか。
「少しでも、空に近い所にいさせてあげたいんだそうですよ」
 …なんか、良く分からないけど、舞らしいな。
「と、あ、ごはん出来ましたから、皆さん、下に降りて下さいね」

  ***

 楽しい昼食を終え、俺達はアパートに戻った。
 佐祐理さんを先生にして、舞と俺の特別授業である。

 いつものように三人でテーブルについてノートとテキストを広げる。
 なぜか、舞は俺から離れた位置に座っている。
 どうやら、俺から雀を守っているつもりらしい…食わないって言ってるのに、この事に関しては、あんまり信用してもらえて
いない様だ。

 傷めた羽を動かさない様に紙のテープで固定され、ピョンピョンと跳ね歩く雀は、確かに可愛い。
 だけど、その雀をじっと見詰め、時折離れ過ぎない様に手元に引き寄せる舞の姿もまた、可愛いと、俺は思っていた。
「可愛いですよねぇ」
 佐祐理さんが呟いた。
「ああ、そうだな」
 なんだか、こうしていると、舞の年齢が分からなくなってくる。
 俺よりも年上なのに、なんだか子供みたいで。
 でも、雀を見守る目は、慈愛に満ちていて、まるで母親のようで。
「祐一さん、食べちゃ駄目ですよ」
 食べる?
 舞を?
 むう、それはちょっと魅力的かもしれない。
「…一さん、祐一さん?」
 ふと気付くと、佐祐理さんが心配そうに。
 舞が呆れたような目で、俺を見ていた。
「…祐一、変」
 お、お前に言われたかねーや!
 勉強を終えた俺達は、のんびりと公園を散歩。
 雀は相変わらず舞の頭の上だ。
「良いお天気ですねぇ」
 佐祐理さんが気持ち良さそうに伸びをする。
「そう言えば、この公園には、アイス屋さんとかが来るんですよ」
 そう言って、佐祐理さんは俺の顔をじっと見詰めた。
 何かを期待する眼差し。
 …分かりました。
「バニラで良いかな?」
「チョコチップが良いです」
 ニコニコと佐祐理さん。
「…今日は抹茶が嫌いじゃない」
 …舞の好みは、相変わらず日本風らしい…とりあえず、自分から好きな物を言えるようになったのは大した進歩だと思うぞ。
「アイスはバニラが基本ですぅ」
「悪いわね、私はミックス、お願いね」
 はいはい…。
 って。
「待てや、おい」
 振り向くとそこには。
「出たな。チーム美坂のリーダーと影の首領」
「誰がリーダーで誰が影の首領よ」
 思いっきり嫌そうな表情を見せる美坂(大)。
 ただ嬉しそうにニコニコと微笑む美坂(小)。
「美坂香里と美坂栞だ」
「久し振りですね、香里ちゃんに栞ちゃん」
 佐祐理さんが嬉しそうに挨拶をする。
 …なんか、長くなりそうだから今のうちにアイス買ってくるか。

  ***

 バニラ二つ、ミックス、抹茶、チョコチップ。
 全部で5つ。
 一人で持つには多すぎるって気がしないでもない量のアイスを持って、俺は4人が待つ芝生へと戻った。
「戻ったぞぉ」
「わぁ♪ ありがとうございますぅ」
 嬉しそうにアイスを受け取る栞。
「ありがと、悪いわね」
 全く、悪びれないのは流石だぞ、香里。
「済みません〜」
 無敵の笑顔の佐祐理さん。
「…ありがとう」
 無愛想にも見えるがその実、とても嬉しそうに手を伸ばす舞。
 えーと…。
「なんで、雀、栞の頭に載ってるんだ?」
 栞が雀を頭に乗せて、嬉しそうにアイスをなめている。
「可愛いから良いのよ」
 …自分の妹を捕まえて可愛いって…姉馬鹿もここまで来れば立派かもしれないな。
 俺のその視線に気付いたのだろう。
 香里が不機嫌そうな目付きをする。
「何よ、栞は可愛くないって言うつもり?」
「…いや…そんな事はない。栞は可愛いと思うぞ」
 最近、ちょっと可愛くなくなってきた様な気がしないでもないけど、アレも、ある意味可愛いといえないこともないし。
「…祐一」
 肘の辺りを引っ張られる。
 舞がアイスを片手に、じっと俺の事を見ている。
 …。
 それはいいんだけど、香里も栞も、期待に満ちた目で俺の事を見ている。
「…言わなきゃ駄目か?」
 コクン。
 頷く舞。
 あ、そう言えば今日初めてだな、頷くの。
 そうか、雀を乗せてたからか。
 だったら、これからも、舞の頭には必ず動物を乗せておけば頷く癖は直せるかもしれないな。
「…祐一」
 俺の現実逃避は長くは続かなかった。
「…分かった…舞も可愛い」
 コクン。
 再び頷く舞。
 ちなみに、こういうシーンを見飽きている佐祐理さんは、栞の頭の上の雀に、アイスのコーンの欠片を上げている。
「祐一さんって、舞さんに頭があがらないんですね」
 楽しそうにそんな事をのたまう栞。
 昔はもっと素直な良い娘だったのに
「どーゆー意味だ?」
「えーと、こ、言葉通りの意味。です」
 最近は香里に毒されて来てる。
 まあ、姉妹だからどこかで似てくるのは仕方ないにしても。だ。
 栞、香里に似るのは容姿だけにしておけ。

  ***

 夜はダンボール箱の低い位置に棒を置いて、そこに雀を止まらせる。
 秋子さんからの教えてもらった方法だ。
 これで、シーツを掛けて、照明の当たらない位置に置く。
「野生動物だからな、外が暗くなる時間には、暗くしてやらないとな」
 しきりに箱を気にする舞を、そう説得して箱から引き離す。
「ゆっくり寝かせてやらないと、治る怪我も治らないぞ」

  ***

 チュンチュンと雀の声で目が覚めた。
 様子を見に行くと、雀が空に向かって何やら囀っている。
「どうした?」
「…何か言いたいみたい」
 手の平に雀を乗せ、舞は困ったような表情を見せる。
 雀は、舞の手の平の上で、チュンチュンと囀っている。
 昨日は鳴きもしなかったのに。
 …さて、どうした物かな。
「餌はあげたのか?」
「…ご飯粒とキャベツの切れ端」
「水は?」
「…飲んだ」
 そうか…そうなると後は…。
「秋子さんに相談してみよう」

  ***

 俺達の説明を聞き終わった後、秋子さんはじっと目を閉じて、何かを考えていた。
 やがて、優しい表情で舞に語り掛ける。
「…舞さん、一つ選んでください」
 無言で頷く舞。
「この子を、これからずっと育てて行きますか? それとも、他の雀達の所に帰してあげますか?」
 …多分、そうなんだろうな。とは思っていた。
 雀は自分の怪我が治った事に気付いたのだろう。
 だから、空に帰りたがっているんだ。
「…飼っていても…良いの?」
 秋子さんは答えず、じっと雀の事を見つめていた。
 しばらく返事を待っていた舞は、今度は雀を見つめた。
「…帰りたい?」
 手の平に乗せ、雀を目を合わせる。
「…友達の所に帰りたい?」
 舞も判っているのだろう。
 雀を乗せた手が小刻みに震えている。
 佐祐理さんと秋子さんは、そんな舞をじっとただ優しい瞳で見つめていた。
「…舞、帰してあげるなら早い方が良い」
 寂しがり屋の舞の事だ。
 今の雀の気持を自分の事の様に感じているだろう。
 ━━自分だったら、佐祐理さんや俺と別れたまま過ごす事は出来ない。
 なら、答えは一つしかない。
「…」
 舞は無言のまま、頷いた。

  ***

 物見の丘。
 大きな木を見上げながら、舞は俺の手をしっかりと握った。
 佐祐理さんは舞の反対側の手を握っている。
 雀は舞の頭の上で、木を見上げて鳴き声を上げている。
「…舞」
 佐祐理さんが声を掛ける。
 すっと、舞が俺の手を離す。
 佐祐理さんも舞の手を離し、一歩下がる。
 舞は頭の上から雀を手の平に移す。
 その表情は、今まで見せた事もない位に真剣なものだった。
 雀の羽を押さえていた紙のテープに指を掛ける。
「…」
 無言のまま、舞は紙テープを取り去る。
 そして雀の乗った手を、差し伸べる。
 その意味が判らなかったのか、それとも、雀も寂しいと感じたのかは判らない。
 ただ、雀は舞の手から飛び立とうとしなかった。
「…き…さい」
 舞が小さく呟く。
 雀は、きょとんとした表情で舞を見上げている。
「…行きなさい!」
 その言葉と共に、強い殺気が放たれる。
 一瞬の間を置いて、雀は逃げる様に舞の手の上から飛び去った。

 呆気ないくらい簡単に、一日だけ、俺達の家族だった雀は飛び去って行った。
「偉かったね、舞」
 佐祐理さんは、無言のまま立ち尽くす舞を抱きしめる。

  ***

「なあ、これ、安直じゃないか?」
「そんな事、ないですよぉ。舞も喜んでます。ねぇ、舞?」
 無言。
 無視しているわけではない。
 真剣に魅入っているだけだ。
「…きりんさん」
 動物園で、象やきりんを眺める。
 舞を元気付けるには、確かにこれは効果的か。
 帰りに、縫いぐるみでも買って…少しでも寂しさがまぎれてくれればそれで良い。

 ふれあい動物コーナーで、子犬や子猫に囲まれ、舞はご満悦な様子。
 どこかから『ねこ〜』とか聞こえた様な気がしないでもないが、気のせいと言う事にしておこう。
「あ、そうだ、祐一さん。ちょっと耳を貸してください」
「ん?」
 取り敢えず膝を曲げ、顔の高さを佐祐理さんに合わせる。
「あのですねぇ…今日、佐祐理は実家の方に泊まって来ますので、舞をお願いしますね」
 …別に、わざわざ内緒話、する必要なさそうだけど。
「それと、今日、舞、危ない日なので、プレゼントに赤ちゃんなんてどうですか?」
 …。
 ……。
 ………。
 はっ!
 俺が息を吹き返すと、佐祐理さんは、遥かかなたで手を振っていた。
「あはは〜、それじゃ、明日のお昼くらいには戻りますから〜!」
「こ、こらっ!」
「…祐一、佐祐理と内緒話してた」
 詰め寄る舞。
「ま、待て! そんな不審そうな目で見るな!」
「…祐一、佐祐理と内緒話…」
 更に詰め寄る舞。
「わぁ! 判った! 後で、帰ったら話す!」
 ま、それも良いかな。なんて思ってる自分に少し驚きながら、俺は少し拗ねている舞にキスをした。

 そんな俺達の上を、ただひたすらにのどかに、雀達が飛んでいた。

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