「そこの人、どいてぇ!」
 え?
 振り向くのと、強い衝撃があたしを襲うのとはほぼ同時だった。
 風景が一回転する。
 ドサ。という音と共に痛みと、雪の冷たさを感じる。
「うぐぅ…どいてって言ったのに…」
「あなたね、人にぶつかっておいて、それはないんじゃない?」
 手をついて置きあがりながら、あたしは冷たい声でそう言った。
 この子には悪いけど、今日は虫の居所が悪いのよ。
 奇跡なんて言葉を安易に使う友人とその従兄弟。
 別に彼らが悪いわけじゃないって分かっているけど…。
「うぐぅ…ごめんなさい…あの…」
 あら?
 あたしはその娘の顔をまじまじと見つめた。
「あなた…あゆちゃん…いえ、ごめんなさい、人違いね」
 そう、あの娘は両親が離婚して、この街を離れた筈。
「え? なんで、ボクの名前を知ってるの?」
「…あなた、あゆさんっていうの?」
「うん、月宮あゆ。あゆでいいよ」
 …確かに面影はある。
 両親が離婚して、学校に来なくなって、ある日、お母さんから、あの娘はお爺さんのいる町に越して行ったと聞かされていたあゆちゃんという幼馴染の…。
「あたしは…美坂。美坂香里よ」
「みさか、かおり? ひょっとして小学校の頃同級生だった香里ちゃん?」
 ああ、やっぱり、あゆちゃんだった。
「…多分そうね、月宮あゆって言う同級生はいたわよ」
「わぁ! 久し振りー」
 突進してくるあゆちゃん。を、思わず避ける。
 後ろの方でドン。という音と「うぐぅ…」という声が上がる。
 …間違いないわね、これは。
「久し振りね。どうしたの? こんな所で」
「うぐぅ…何事もなかったかのように話を進めないで」
「分かったわ、それじゃあ……まあ、あゆちゃん! どうしたの、ひどい怪我よ、痛くない? 誰にやられたの?」
 恨めしそうな目であたしを見上げるあゆちゃん。
「うぐぅ…今更わざとらしいよ」
「わざとだからよ」
「うぐぅ…」
 そうそう、この口癖。
 懐かしいわね。
「所で、さっきはなんで走っていたの?」
「あ! 今日は大事な用事があったんだよ!」
「用事?」
「うん、たい焼き屋さんで新しい種類のあんこを試すから、来て欲しいって言われてたんだよ」

 あゆちゃんに引っ張られて連れてこられたのは、屋台のたい焼き屋さんだった。
「へぇ…、うぐいす餡のたい焼きなんて、ボク、初めて見たよ」
 あゆちゃんはビタっとガラスにへばりついて、たい焼きが焼けるのを待っている。
 言っちゃ何だけど、まるで小学生よね。
「それじゃあ、味見してもらえるかな? そちらのお嬢さんも」
 たい焼き屋の親父さんは、飛び入りのあたしに驚く事もなく、優しい目で笑いながら焼き立てのたい焼きを手渡してくれた。
「何、試食だからね。正直な感想を聞かせてくれればお代は要らないよ」
「うん。ボク、頑張るよ!」
 何をどう頑張るのか、後でじっくり聞かせてもらいたいわね。

  ***

「ただいまー」
 家についたあたしは、たい焼き屋さんからお礼に貰った10個入りのたい焼きの箱を台所に置き、一枚のメモを書いて貼り付けてから洗面所に向かった。
 うがいと手洗い。
 家に風邪を持ち込まないための習慣。
 とたとたと階段を降りてくる足音。
 …あたしには…あの娘を妹と呼ぶ資格はない。
 だから、その足音を避ける様にそっと自分の部屋に戻る。
 着替えもせずにベッドに横たわる。
 今日一日の疲れが体の中心に残っている様。
 頭の芯が痺れるみたいな感覚。
 なんだか本当に疲れた。
 …でも。
 あたしは不意に頬が緩むのを感じた。
 あゆちゃん。
 懐かしい口癖。それから、昔と変わらない困った時の表情。
 あの娘のおかげで、今朝方感じていた嫌な気分は消し飛んでいた。
 トントン。とノックの音。
 あたしが応えないでいると、外から栞の声が聞こえた。
「…お姉ちゃん…あの、たい焼きありがとう。美味しかった」
 …お姉ちゃん…か。

 あの娘はまだあたしの事を姉と呼んでくれている。
 苦しむのが嫌であの娘を見捨てた筈のあたしの事を。
 栞は、いつでもあたしの事を慕ってくれていた。
 病弱だった栞は、あたしの話す外の世界に憧れていて、あたしに話しをねだっていた。
 遊びに出る事の出来ない栞のために、あたしは二人で出来るゲームを探して、いつも一緒に遊んでいた。
 あたしは栞にとって良い姉であろうとしていた。ううん。そうじゃない。
 あたしは栞が大好きなんだ。
 だから、栞の側にいたいと思っていた。
 その笑顔を見ていたいと思っていた…筈だった。
 それなのに。
 あたしは、あの娘を。
 一番、助けを欲しがっていたあの娘を。

   「あたしに妹はいないわ」

 見捨ててしまったの。

  ***

 あゆちゃんは、いつも唐突だ。
 この前は相沢君と一緒に歩いていたし、秋子さんと一緒に買い物をしているのを見かけた事もある。
 そして、今日はあたしと一緒に商店街を歩いている。
 なんでも、探し物をしているらしいけど、あたしに話しかけるばかりで、一向に探し物をしている様子はない。
「香里ちゃん、妹いたよね。元気になった?」
 あゆちゃんは、いつも唐突だ。
 本当に。
 でも。
「何の事? あたしに妹はいないわ」
 表情一つ変えずにそう応える。
 しかし。
「えーと、そうそう、栞ちゃん!」
 …聞いてない。
「この前、祐一君と一緒に歩いてたよ」
 最近、家を抜け出していると思ったら…学校に来るだけじゃなくデートまでしてたのね。
「あの二人、本当に仲が良いよね。まるで本当の兄妹みたい」
 栞は兄とは思ってないし、相沢君も妹とは思ってないみたいだけどね。
 …あの娘が相沢君との思い出を望むなら。
 それが最後の望みなら、姉として祝福してあげたい。
 せめてもの償いに…。

  ***

「ほんと、見る目がないわね」
「余計なお世話だ」
「……」
 栞があたしの事を見ている。
 あたしも、栞の目を見つめる。
「余計なお世話じゃないわよ…」
 栞は悲しそうな目で、それでもあたしから視線を逸らさない。
「だって、栞は…」
 …そう、栞は…。
「あたしの妹なんだから…」
 何を言われたのか分からなかったのか、栞は一瞬遅れて反応した。
「…え」
 目を丸くする。
 そんなに驚く事ないでしょう?
 …驚くか、やっぱり。
 名雪も驚いているし、相沢君も驚いている…まあ、仕方ないわね。
「…名雪、帰るわよ」
「え?」
 お邪魔でしょ? あたしたちは。
「寄りたい店があるのよ」
 理由をつけて名雪を説得する。
「それじゃあね、ふたりとも」
 仲良くするのよ。
 相沢君、妹を。栞を泣かせたら承知しないわよ。

  ***

 あゆちゃんは、いつも唐突だ。
 名雪と本屋で別れ、商店街を歩いていると、正面からあゆちゃんが走ってきた。
「あら、今日もたい焼き屋さん?」
「…香里ちゃん…あのね、ボク、探し物見つけたんだ」
 そう言えばこの前に会ったとき、何かを探しているって言っていたっけ。
「あら、良かったじゃない」
 その割になぜか表情が暗いけど。
「それでね、もう、この街に来る事もなくなると思うんだ」
「…また会えるわよ。あたしね、今は奇跡を信じたい気分なの」
 あたしがそう言うと、あゆちゃんは少し悲しそうに、でも、優しい笑顔を見せた。
「だから、きっとまた会えるわ、嫌になるくらい…そしたら栞をちゃんと紹介するから」
「…ねぇ、香里ちゃん。もしも一つだけお願いが叶うとしたら、どんなお願いをしたい?」
「そうねぇ…」
 ふっと、空を見上げる。
 オレンジと青の入り混じった不思議な色。
「みんなが、仲良く、幸せにいられます様に。って所かしら」

  ***

 栞が倒れた。
 相沢君との約束の期間を終えて。
「お姉ちゃん…」
 病院のベッドの上で力なくあたしの手を握る栞。
 抵抗力の落ちた栞にとっては、ただの風邪も死病となる。
 顔は赤く火照っているのに栞の手は冷たくて、あたしは一生懸命その手を温めようと両手でこすった。
「あったかい…ケホ…」
 小さく咳き込む。
 慌てて酸素のマスクに手を伸ばすが、栞は小さく咳を繰返しながらもその手を押し留めた。
「まだ…大丈夫」
 ひとたび咳の発作が起これば呼吸もままならない程の苦しみが栞を襲う。
 立ちあがる事も出来ないほどに力が衰えているのに、その時ばかりはベッドの上で小さな身体が跳ねる。
 ともすれば、目を逸らして逃げ出したいと思う。
 その度に、栞の悲しそうな笑顔が目に浮かぶ。
 もう、この娘にあんな表情をさせてはいけない。
 …泣き出しそうな心を笑顔で押し隠す、あんな表情だけはさせてはいけない。
 今の栞を見ているのは、とても辛い。
 でも、あたしは、今度こそ最後まで栞の姉でいる。
 そう決めていた。

  ***

「…さん」
 栞の声で目が覚める。
 手を握ったまま眠っていたみたい。
「あ、あら、昨日はちょっと夜更かし…」
 慌てて言い訳をしかけて、ふと気付く。
 栞も眠っていた。
 あたしの手は握ったまま。
「ゆ…いちさ…」
 寝言…ね。
 今日の栞はなんだかとても安らかな表情をしている。
 心なしか、熱も下がっているみたい。
 それにしても…。
 相沢君はどうして会いに来てくれないのだろう。
 確かに栞との約束があるのは判る。
 でも、栞だってきっと会いたがっている。
 今を逃したらもうこの娘には会えないかもしれないのに。
 そこまで考えてから気付く。
 あたしは栞が助からない前提で考えている。
 きっと相沢君は栞が帰って来ると信じて待っている筈。
 ここで姉のあたしが投げてどうするの。
 いけない。
 諦めればそれでお終いになってしまう。
 諦めるのはいつでも出来る。
 だから今は足掻こう。
 栞が諦めない限り。

  ***

 一生懸命生きようとする栞。
 だけど、病は少しづつ栞の体力を奪って行く。
 投与される大量の薬のせいで、起きている時間よりも眠っている時間の方が長い。
 静かな寝顔を見ていると、このまま目覚めないのではないか。そんな不安に駆られる。
 その都度、呼吸を確かめて安堵の息をつく。
 そんな日々の繰り返し。
 そして栞は命をすり減らして行く。
 浅い眠りと夢うつつの中で、残酷なくらいにゆっくりと命の輝きが薄れて行く。
 現状維持すら奇跡だと先生は言う。
 でも、あたしはそんな奇跡は認めない。
 奇跡が起きるなら、栞のささやかな…本当にささやかな願いをかなえて欲しい。

 あたしと同じ制服を着て
 一緒に学校に行って
 お昼を一緒に食べて
 他愛ない話で笑って、泣いて
 あんまりさえないけど優しい彼とデートして
 たまに門限を破ったりしてお父さんに怒られて…。

 こんな事が夢だなんて悲しすぎるじゃない。
 せめてかなえてよ。こんな当り前の事なのよ。

 奇跡でも医学の進歩でもなんでも構わない。
 栞の夢をかなえてよ。
 …理由なんてどうでもいい。
 栞が元気になってくれさえすれば。

  「みんなが、仲良く、幸せにいられます様に。って所かしら」

 それはあたしの願いでもあり、栞の願いでもあった。
 その筈だった。
 …でも。

「お姉ちゃん…」
 点滴を受けながら、栞が呟く様にあたしを呼んだ。
「何? 点滴、緩める?」
「ううん…あのね…あの…」
 栞は何回か躊躇った後でか細い声で言った。
「…帰りたい…うちに帰りたいの…」
 終った。
 そう思った。
 栞が諦めてしまった。
 ささやかな夢を追い続け、そのために命を削りながら耐えていた栞が諦めてしまった。
 …止めなきゃ。考え直させなきゃ。そう思った。
 だけど。
「わかったわ…でも一晩だけでいいから良く考えて…」
 あたしは冷静な声でそう答えていた。
 そして、残酷かな。とも思ったけど、大切な事だから付け加える。
「それとも…もう待てそうにない?」
 栞は小さく横に首を振った。
「なら、考えてみて。それでも栞が帰りたいなら、お姉ちゃんがおぶってでも、連れて帰ってあげるわ」
 医者は反対するだろう。
 家族も反対するに違いない。
 だけど、それがどうしたって言うのよ。
「今までこんなに、こんなにも、頑張ったんだもの、誰にも…文句は…言わせない…わ」
 泣くものか。
 栞の前で私が泣いちゃ駄目だ。
 そう思っていたのに…どうして、こんなに言葉が途切れてしまうのだろう。
 そして、なぜ、こんなにも熱い雫が頬を伝うのだろう…。

  ***

 翌朝。
 付き添い用の小さなソファーベッドの上で私が目覚めると、栞と目が合った。
 先に起きてずっとあたしの事を見ていたみたい。
「何? あたしの寝顔見てて楽しい?」
「うん…寝言言ってたし」
 久し振りに見る栞の心からの笑顔。
「あら、なんて言ってたの?」
「男の人の名前、呼んでた」
「嘘ね」
 好きな人なんていないし、そんなゆとりもないもの。
「本当は、私の事呼んでたの」
 …そんな夢、見てたかしら?
「それでね、昨日の事なんだけど…」
 昨日の事。
 家に帰りたい。と言った栞の辛そうな表情を思い出す。
「あのね…本当はまだ帰りたいけど、でももう少し頑張ってみる」
「…いいの?」
 無駄に時間を過ごすだけかもしれないのに。
「うん…今朝ね、天使の夢を見たの。もう少し頑張ろうって言ってたから…だから頑張ってみる」
「天使?」
「うん、綺麗な羽が生えてた…知ってる人によく似た天使」

 この日を境に、栞の病状は快方に向かい始めた。
 奇跡なのかもしれない。
 新しい薬の効果なのかもしれない。
 正直言って、理由なんてどうでもいい。
 栞が少しずつ元気になって行く。
 それだけで十分。

  ***

 そして、今日。
「なんだか嬉しそうだね」
 名雪が私の横に立った。
「気のせいよ」
「うん。でも、よかったね」
 名雪が見ているのは、私が見ているのと同じ風景。
「名雪には悪いことしたわね」
「そんな事ないよ。私も嬉しいんだから」
 名雪はそう言ってにっこりと笑った。
 私達の見ているのは中庭の日溜り。
 そこでは、栞のささやかな夢が現実の風景になっていた。


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後書き

このお話はばやんさんと雫さんに捧げます。
きっかけはばやんさんでした。
香里SSを書くという着想はばやんさんから頂きました。

元々は香里のシナリオを。という要望でした。
しかし考えた挙げ句。
香里の望む奇跡=栞の望む奇跡。にしかなりません。

万が一、栞の死後の話を書くとそのまま佐祐理さんのシナリオとダブります。
或いは雫さんの書かれた『想い香る里』の様な流れになるか…。
栞が健康になった後の話なら書けると思います。
でも、それだと時期的にシナリオにはなりません。

そこで考えたのが、栞シナリオを香里の目で見る。という流れです。
ついでに祐一は極力排除。
その状況であゆを登場させる為、香里とあゆはかつて同級生だったという設定を捏造。
で、更にシナリオにこだわらない事に決定(ここで既に当初の目的を見失ってる)。
その後、ほのぼの系に流れかけた所を雫さんに拾われて、最後まで書いてみました。
なんとかまとまっていれば良いのですが(^^;



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