可愛い問題児達 −3−
医師の診断書にこれだけ注意事項が書かれている生徒というのも珍しい。
私は、来年入学予定の生徒の資料に目を通していた。
一昨年の倉田さんは元怪我人だったけれど、こちらは現役の病人。
緊急時の対応や、その為に必要な薬品。それから主治医の連絡先。
こんな物まで書いているというのは、主治医が心配性なだけか、或いは…って、まさかね。ドラマじゃあるまいし。
それにしても病院側の受け入れ手順まで決めた上で通学だなんて、一体どういうつもりなんだろう。
こんな状態で、こうまでして登校を許す理由なんて本当に限られてしまう。
彼女の病歴は1枚に収まりきっていない。
余病を併発しては治療してを繰り返している。
つまり、基礎体力にも不安があるという事。
食事や運動にこれだけ制限があるのでは、学食の食事だって食べられる物は限られる。
林間学校や修学旅行にも行けないんじゃないだろうか。
というか、そもそも、こんな状態で学校に通わせるなんて。
読み進める内に、滅多に見る事のない申し送り事項。
…この緊急マニュアル。本人には秘密らしい。
普通、医療従事者には当たり前の事だけど、敢えてそれを書くと言う事は。
私は、改めてその生徒の名前を確認した。
美坂栞。
それが、その生徒の名前だった。
***
ノックの音。
椅子に座ったまま振り返り。
「どうぞ。開いてるから」
そう、声を掛ける。
おずおずとドアを開けて、一人の少女が緊張した面持ちで入ってくる。
「あの、初めまして」
その少女は緊張気味にそう言って御辞儀をした。
保健室に入るなり初めまして?
…これは珍しい部類の挨拶だ。
「こんにちわ、どうしたの?」
リボンの色は一年生。
入学式早々怪我でもしたのかと思ったけど、どうも違うらしい。
「えと、私、美坂 栞です。多分、これからちょくちょく御世話になるんじゃないかと思いますので、その、宜しく御願いします」
その名前はしっかりと記憶していた。
今年一番の問題児は、まだ、あどけなさの残る少女だった。
「ええと、美坂さん?」
でも、私はとぼけてみせた。
申し送りの記述の事もあったけれど、それがなくても私はきっとこうしていただろう。
私のその問い掛けに、彼女は少しだけ困ったような表情を見せた。
そして。
笑顔。
「…はい。あの、私、ちょっと病弱だったので、たまに御邪魔するんじゃないかって思って、それで御挨拶にその…」
病弱…だった?
それは、彼女の診断書に書かれた彼女の主治医の意見とは全く異なる見解だった。
…本人は自分の状態を知らないって事?
なんて厄介な。
一瞬、そう思ってしまった自分を心の中で叱責する。
「それは構わないんだけど。出来るだけ、遊びに来るだけでここの御世話にならないようにしてね」
そう言って、ウィンクして見せる。
「はいっ」
…この娘の、一体どこが病弱だと言うのだろう?
彼女の笑顔は、本当に底抜けに明るく、幸せそうだった。
だから。
私はこう思っていた。
彼女は遊びには来るだろう。
だけど、苦痛に表情を歪め、ここに運ばれてくる事はない。
そう…思って…いいえ。願っていた。
***
それから数ヶ月。
私の予想通り、美坂栞という娘が保健室に来る事はなかった。
…予想と違っていたのは、彼女は来るに来られない状態にあったという事だ。
始業式の翌日。帰宅後、入院したと担任から報告があった。
…たった数分の会話。
だけど、それは私にとって忘れられない物になっていた。
***
ノックの音。
椅子に座ったまま振り返り。
「どうぞ。開いてるから」
そう、声を掛ける。
おずおずとドアを開けて、一人の少女が緊張した面持ちで入ってくる。
「あの、御久しぶりです」
その少女は緊張気味にそう言って御辞儀をした。
…これもまた、珍しい部類の挨拶だ。
「こんにちわ、どうしたの?」
今日から来ると言う事は聞いていた。
だけど、こんな風に。
「これ、よろしくお願いします」
笑顔で、現われるとは予想もしていなかった。
その笑顔は、私の記憶に残っている彼女の笑顔よりもどこか寂しげで、作ったように見えた。
だから、ほんの短い間だけど私は不自然な間を作ってしまっていた。
少女は大きな茶封筒を私に差し出す。
美坂さんの診断書は既に受け取っている。だけど、その封筒には病院の名前が入っていた。
「何?」
封筒を受け取り、封を切る。
内容は美坂さんの主治医からの私信だった。
『彼女は自分の病気の事を知っています。
隠す必要はありません。
栞ちゃんを頼みます。』
美坂さんが小さい頃からずっと御世話になっているであろう主治医の先生からの、それはとても重いバトンタッチだった。
「ええと、今日から一週間だけですけど、復学出来る事になったんです。多分。御世話になるかもしれないと思ったので、挨拶をしておこうと思いまして」
…一週間。
医師の診断と、万が一の時に学校の養護教諭に出来る限界。
一週間と言う期間はそこから計算された、彼女に許されたお祭りみたいな時間。
「そう…知っているのね」
私の呟きに、少し困ったような表情で頷く美坂さん。
「それじゃ、話は早いわね…ちょっとでも異常を感じたらすぐにここに来る事」
敢えて事務的にそう言う。
「…はい」
美坂さんは慎重な面持ちで頷く。
そうだった。
…生徒に信頼して貰えなければこの仕事は出来ない。
「…美坂さん。学校にいる間は私があなたの事を守ります」
私は美坂さんの目を真直ぐに見つめてそう言った。
それは嘘偽りのない私の気持ち。
「あなたの時間を少しでも延ばすために協力するから、私を信用してね」
「はいっ!」
美坂さんはそう答えて。
今日、初めての心からの笑みを私に見せてくれた。
***
一週間後。
美坂 栞という名の生徒は休学した。
そして春。
満面の笑顔と共に、再び彼女のお祭りみたいな時間が再開される事になるのだが、それはまた、別のお話。