みさき 番外編
−慶−
つわり。という物がある。
…らしい。
いや。
あるのは知っているのだが、みさきのそれはとても軽い物だったのだと思う。
ちょっと顔色悪いかな。
食欲も少しだけ落ちたかな。
という時期が2〜3週間。
テレビでお馴染みの、口を押さえて洗面所に駆け込む姿はついぞ見る事はなかった。
お義母さんが。
「みさきは良いわねぇ」
等と言っている所から、どうやらみさきはつわりが軽かったのだと判ったのだが、そうでなければ一体、いつ悪阻があったのかも判らなかったかもしれない。
正直な所、妻の妊娠という事態に、男はオロオロする位しか出来る事はない。
勿論、子供が生まれるのは嬉しいし、嬉しそうなみさきやみさきの両親を見るのも嬉しい。
だけど、何か出来るのか、と問われると、正直言って何も出来ない。
時々、みさきにマッサージをしてみたり、胎教に付き合ってみたり。
でも、肝心な出産という物は、男にはあまり理解出来ない物だと言う事が身に染みた。
産婦人科を選ぶ時も、オレは全くと言って良いほど役立たずだった。
近所にはもっと大きな総合病院もあるのに、みさきは小さな診療所を選んだのだ。
「あそこなら安心できるよ」
オレがみさきに、どうしてそこを選んだのかと聞いた時、みさきはそう言って笑った。
「大きな病院ってね、担当医がいない日もあるんだって」
「そりゃ、医者も休むだろう」
担当医がいるってのはそんなに大事な事なのか?
オレのそんな疑問に気付いたのだろう。
みさきは溜め息を吐いた。
「…お父さんもそうだったけど、全然判ってくれないんだよね」
ここしばらく、どことなくナーバスになっているみさきは、そう言って肩を落とした。
「あ、いや、まあ…」
見れば、お義父さんは新聞の向こうでお茶を啜っている。
お義母さんはテーブルを拭いたりしているけれど、あの楽しそうな表情は絶対に耳ダンボ状態だ。
「出産ってね、精神的な部分も大事なんだよ。不安やストレスがあると難産になる事もあるんだから」
そういう物なのか?
「だから、お医者さんとの信頼関係も大事なんだって。でも、肝心の時に担当医がいないって事になったら信頼も何もないでしょ?」
…確かに。
「それに私は目が見えない分、普通よりもお医者さんとのコミュニケーションは大事だと思うんだよね」
なるほど。
「で、その診療所なら大丈夫だと?」
「うん。もちろんだよ。だって…」
「あー…浩平君」
お義父さんが何とも言えない表情で話しかけてくる。
「実はな、あの診療所はみさきが産まれた所なんだ。どうも、うちのはあちこち調べてあそこを薦めたみたいだし、まあ、納得してやってくれ」
「ええ………でも、やっぱり何かあったときに総合病院の方が…」
お義父さんは楽しそうに笑った。
そして懐かしそうに目を細めた、
「昔、みさきが産まれる時に、私も同じ事を言った記憶があるよ」
***
「こんにちわぁ。みさき、ケーキがあるわよぉ」
忙しい中を縫うようにして深山さんがみさきの様子を見に来てくれる。
あまり言葉には出さないが、初産という事でみさきもそれなり神経質になっていて、深山さんの訪問は、そうしたみさきの心を癒してくれていた。
あったんだか、なかったんだか判らなかったみさきの悪阻が落ち付いて、みさきの食欲は前にも増して凄い事になっている。
その上偏食もするようになった為、みさきの食費がどうなっているのかはあんまり考えたくない状況だったりする。
「みさきは幸せよねえ」
「うん、幸せだよ。それが?」
深山さんのお土産のケーキをぱくつきながら、みさきは不思議そうに首をかしげた。
「はぁ…ごちそう様。でも聞いたわよ。母親学級の事」
母親になるためには勉強が必要らしい。
そうした勉強会に妊婦達が参加しているという事は、みさきに聞くまで全然知らなかった。
知らない事はたくさんあった。
出産の為の呼吸法位は聞いた事はあったけど。
産後の注意事項。
初乳というもの。
首が据わるという事。
腕全体で子供を支える方法。
授乳のしかた。
ミルクの回数。
最初の頃のミルクの間隔。
オムツの変え方や、夜泣きについて等々。
確かにこれは勉強しておかなければ大変な事だろう。
勉強してもその大変さは変わらないとは思うけど、少なくとも心構え位は出来る。
「まさか、折原君が一緒に通ってるとは思わなかったわ」
…なぜ知っている?
夫婦で出席するケースもなくはないが、勉強会ではオレはかなり浮いた存在だ。
でも、だからと言って深山さんにまで知られるほどの知名度はない筈だが。
「あの、どうしてそれを?」
みさき…も不思議そうな顔をしているし。
お義母さんかな?
「うん。私がDJやってるラジオで、投稿が来たのよ。目の見えない妊婦さんとその旦那さんの話し。良い夫婦で羨ましいって。匿名だったんだけどね。住所とかこの近所だったし、その妊婦さんが凄い食欲の持ち主だとか書いてあったから」
…その投稿者も、まさかみさきと深山さんが友達だとは思ってなかったんだろうな。
「それで…その投稿って」
「うん、放送しちゃった」
しちゃったってあなた。
「まさか、全国放送?」
「そ、全国放送」
「私達もこの子も、有名人になっちゃったね」
みさきはそう言っておなかを撫でながら、嬉しそうに笑っていた。
***
みさきが入院した。
病気や怪我ではない。
出産予定日に入ったからだ。
計画出産という手も考えないでもなかったんだけど、みさきが。
「そんな、無理矢理追い出すみたいな事はしたくない」
と言い張り、お義母さんもそれに同調した為、次善の策としての予備入院である。
さすがにいざと言う時、目が見えないと何があるか判らない。
確かにみさきは打たれ強いけど、子供にまでそれを求める事は出来ない。
お義母さんが付いているとは言っても買い物に行く事もあるし、常に誰かが付いているという事は出来ない。
もしもみさき一人の時に陣痛が始まったら。
電話を掛けようにも、気が動転して電話を見つけられないかもしれない。
万が一、電話を落としてしまったりしたら、そして電話線が抜けたりしたら、みさきにはどうしようもない。
「心配し過ぎだよぉ」
と、みさきは笑っていたが、オレとお義父さんの説得でなんとか納得したらしい。
お義母さんは。
「これから出産する人の不安を煽って」
と怒っていたが。
目が見えないと当たり前の事も危険を伴う。
タクシー乗り場のような場所ならともかく、みさきは一人ではタクシーに乗る事も出来ない。
タクシーの位置、自動で開くドアの位置を掴めないからだ。
ドアを見付ける事が出来れば後は問題ないのだけれど、陣痛が始まっている時にそういう冷静さを期待出来るとも限らない。
そうした諸々を考慮した結果。
盲目で初産という事もあり、みさきは陣痛が始まる前から入院する事になった。
***
出産予定日を一週間ほど過ぎたある日。
オレとみさきの子供が生まれた。
オレも一緒に立ち会った。
実の所、みさきは初産にしてはかなりの安産だったらしいが、正直、血の気が引いて、倒れるかと思った。
凄い声だったし、俺の腕にはみさきの手の跡がしっかりと痣になって残っている。
そして、オレが見守る中。
顔を本当に真っ赤にして、汗だらけになりながら、みさきは新しい命をこの世界に迎えてくれた。
産まれたばかりの娘を、壊れ物に触れる様に抱いて、疲れた顔で、それでも嬉しそうに笑うみさきは、本当に綺麗だった。
もっと大変かと思っていた。
いや。
…多分、大変だったんだとも思う。
だけど、生まれてしまえば、まるで台風が過ぎた後の様にも感じられる。
台風一過。
一転して青空。
もちろんこれからも大変だという事は良く判っている。
でも、多分。
家族が増えた慶びが、そんな大変さを幸せに変えてくれているのだろう。
***
深山さんが駆け付けてくれたのはそれから2週間ほど過ぎた日の事だった。
ロケで地方に行っていたらしく、そのお土産と一緒に沢山の出産祝いを抱え、深山さんは現われた。
取り敢えず居間に上がってもらい、お茶を出す。
「それで折原君。みさきは?」
深山さんはちょっと心配そうに奥の方を覗く。
「ああ。今奥で寝てる」
「…具合、悪いの?」
「いや。ちょっと疲れてるだけだ。お義母さんが手伝ってくれてるとはいえ、育児は寝不足になるから…」
熟睡しているだろうし、覗くだけで勘弁してもらおう。
まだ、数時間置きにミルクを上げなければならない時期だ。
細切れの睡眠しか取れないみさきにとって、安眠できる時間は出来るだけ寝かせておいてやりたい。
「とりあえず、ちょっと覗いて…」
と言いかけたとき。
奥から赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
「…起きたみたいだ。ちょっと待っててください」
***
「みさ…き?」
赤ちゃんを抱いて、折原君と一緒に現われたみさきを見て、私は思わずそう声を掛けた。
そこにいるのは間違いなくみさきなんだけど、何だか少し雰囲気が違って見える。
…ここ暫く、お腹が大きかったから、それで見違えているのかもしれないけど。
「雪ちゃん。紹介するね。私の娘。折原 みさおだよ」
みさきはそう言って赤ちゃんに頬擦りする。
「違う名前にしようって言ったんだけど、みさきがどうしてもって」
私は良い名前だと思うけど?
「みさお。あっちのオバちゃんは雪ちゃんだよ」
オバちゃんって…まあ、母親と同い年ならオバちゃんか。
でも、未婚の身としてはちょっと抵抗があるかも。
「みさおちゃんって言うんだ。可愛いわね」
「私の子供だからね」
自慢気にそう言うみさき。
変わったと思ったのは気のせいかしらね。
「あれ?」
良く見ればみさきの顔。
「そばかす、随分増えてるのね」
「うん。そうみたいだね。でも名誉の負傷だよ」
はい?
「ええと。ですね」
折原君が説明してくれる。
「出産の時にいきみ過ぎて、真っ赤になったりすると、こうやって残るらしいんです」
「でも、私はまだ若いから消えるでしょうって看護婦さんが言ってたよ」
へぇ。
「大変だったんだね」
ふと思い付いて、人差し指でみさおちゃんの掌に触れて見る。
きゅっと握ってくる感覚がわけもなく楽しい。
「いきむのが下手だって言う事らしいんですけどね」
「あ、それは秘密なのに〜」
それにしても。
ちょっとだけ引いて親子になって間もない3人を眺めて見る。
嬉しそうに。大事そうに我が子を抱くみさき。
安心しきった赤ちゃんの表情。
母娘を見守る折原君。
…うん。しっかり家族してるね。
私の事は雪オバちゃんで構わないから。
これからよろしくね。みさおちゃん。
ええと。
このSSはある方への御祝いだったりします。
多分、御名前出すのはまずかろうと思いますので、仮に某さんとさせて頂きますが、御祝いと言いつつ、色々と教えて頂いたりして、むしろ、御礼が必要なんじゃないか? という状況だったりします(^^;
むう、第三者さんにはわけ判らないかも知れませんが、とりあえず一言。
おめでとうございます。それと、ありがとうございます(^^)
でわ(^^)/