茶々 −2−


 最近になって、みさきはまた、学校に通うようになった。
 朝、お母さんと私は学校までみさきを送り、私と少し散歩をしてから家に帰る。
「茶々が盲導犬だったらねぇ」
 お母さんは良くそんな事を言った。
「でもま、お前の世話をみさきに任しているからね。あの子も、自分が必要なんだって思えるだろうし…、茶々、お前には感謝しているんだよ」
 良く判らないが、感謝されるのは好きだぞ。
 でも撫でるだけじゃなく、何かくれるもっと嬉しいと思うぞ。

 夕方、みさきが帰ってくる時間になると、また学校までみさきを迎えに行く。
 家に帰るとみさきとお母さんは勉強を始める。
 お母さんが本を読み、みさきはそれを一生懸命繰り返す。
 私はみさきの勉強時間が終わるのを、みさきの側で身動き一つせずに待つ。

 勉強が終わると、部屋の中で、みさきは私と遊んでくれる。
「茶々、行くよ」
 みさきがコロコロとボールを転がす。
 私はそれを咥えてみさきの元に戻り、みさきの手にボールを置く。
 …そう、私はとうとう「取って来い」も憶えた。
 みさきがボールを転がして、私がそれを咥えて戻る。
 私が拾わない限りみさきは遊んでくれない。
 困ったような顔でじっと待っているだけだったから。

 みさきの目が見えなくなってから、みさきの友達はだいぶ少なくなってしまった。
 結局、最後まで友達として今までと同じように接していたのは雪ちゃんだけだった。
 みんな、群れの中でのみさきの地位を低く考え始めたんだと思う。
 無理もない。
 犬の世界でならごく当たり前の事だ。
 力を失った犬は群れの中での地位が低くなる。
 でも、雪ちゃんだけはみさきとの位置関係を変えずにいた。
 …人間というのは判らない。
 でも、雪ちゃんみたいな人間がいるのなら、それはとても素晴らしい事のように思える。
 だから、私は私の群れの中での雪ちゃんの地位を、みさきの次にまで上げることにした。
 私にとってみさきは常に群れのリーダーだ。
 私はみさきに命を救ってもらったんだ。
 そのみさきを救ってくれた雪ちゃんには本当に感謝している。
 もっとも、私が感謝の意を表明しようとして顔を舐めるのを、彼女は本気で嫌がっていたようだが…。

  ***

 やがて、みさきは中学生になり、学生服と言う服を着て今までとは違う学校に通うようになった。
 ランドセルは背負わず、でも、雪ちゃんとは違い、肩掛けの鞄を使っている。
「離したら判らなくなっちゃうし、この鞄なら、フタを開けるのも簡単だからね」
 みさきは、そんな風に雪ちゃんに説明していたが、私は、みさきが雪ちゃんと同じような革の鞄を持っている事を知っている。
 たぶん、みさきはその鞄を使いたいんじゃないかと思う。

 この頃からみさきの勉強の方法が変化した。
 変な耳あてをつけて、黒い箱を使っての勉強。
 かせっとてーぷがどうとか言っていたが良く判らなかった。
 そしてなぜか、その耳あてを付けている時は、みさきは遊ぶわけでもないのに私の体に触れていた。
 そして、私が身動きするたびに、耳あてを外し、きょろきょろする、という事を繰り返していた。
 みさきのこの行動は、いまだに理解できない。

「茶々…私ね。茶々がいてくれて本当に嬉しいんだよ」
 みさきは勉強が終わると、私の首を抱きしめて話しかけてくれた。
 私もみさきがいてくれて嬉しいぞ。
 みさきがいてくれたから私は生きている。
 みさきがいるから私は楽しい。
 私はそんな思いを込めてみさきの頬を舐めた。
「茶々は優しいねぇ…」
 みさきと雪ちゃんには優しくする事に決めたんだ。

 時々みさきは、何をするでもなく、私の側に転がって、一緒に眠ったりもした。
 一緒に眠り、一緒に遊び、一緒に食べる。
 私にとって、本当にみさきはかけがえのない群れの仲間だった。

  ***

 みさきの制服が変わった。
 高校という所に行く事になったそうだ。
 みさきが新しい制服を着た朝、雪ちゃんが迎えに来た。
「おはようございまーす…あ、茶々もおはよ」
 私は尻尾を振って、玄関先で雪ちゃんを出迎えた。
「雪ちゃん、おはよ〜」
 みさきも玄関に出てくる。
 肩掛けじゃない、雪ちゃんとお揃いの革の鞄を下げている。
「おはよ。じゃ、行こうか」
「うん!」
 私はお母さんと門の所まで出てみさきを見送る。
 …あれ? 正面の大きな庭の建物に入っていったけど…。
 ぅおん!
 遊ぶなら私も一緒に行くぞ。
「あ、こら、茶々!」
 お母さん、縄を離して欲しいんだな。
「駄目よ、みさきは学校に勉強をしに行くんだから」
 ?
 あそこは遊ぶ場所だぞ?
 みさきだって、あんなに楽しそうにしてるし。
 …あれ?
 私は耳を澄ませた。
 聞こえない…。
 最近、みさきが歩く時に使っている杖の音が聞こえない。
「…大丈夫かしらねぇ…杖、使わないで歩くなんて…無理やり持たせたけど、きっと使わないわね、あれは」
 お母さんも心配そうだ。
 うん、私も心配だぞ。やっぱり着いて行くぞ…って。
 ずりずりずり…。
 ひ、引っ張らないで欲しいんだな…。
「さ、茶々。まだ洗い物が残っているんだから、散歩はその後よ」

  ***

 それから暫くして、私とみさきは、高校で散歩をするようになった。
 時間はいつも夜が明けるか明けないかという時分。
 みさきは誰もいない校庭を走る事が多かった。
 私はそんなみさきから付かず離れず、紐に付けた鈴を鳴らしながら一緒に走った。
 嬉しかった。
 みさきとまた走れると言う事がただ、無性に嬉しかった。
 みさきも嬉しそうだった。
 何もない場所をただ走り回るのがこんなに楽しいなんて思いもしなかった。
 みさきはよく転んだけど、笑いながら私を呼び、また走った。
 それから、こっそりと学校の中を案内してくれたりもした。
 屋上という場所は高くて怖かったけど、みさきはそこが一番好きみたいだった。
 学食という所は美味しそうな匂いがしたが、私は入ってはいけない場所らしく、珍しくみさきに引っ張られたりもした。
 体育館。図書室。職員室。教室。
 みさきは色々な所を案内してくれた。
 杖を使っていないから、良くあちこちにぶつかっていたけど、それでもみさきは楽しそうに歩き回っていた。
「まだ、慣れてないけどね」
 みさきは廊下の壁に激突した後、笑いながら言った。
「でも、覚えてるんだ。私が大きくなった分、ちょっと感覚がずれてるけど、慣れれば廊下だって走れるようになるよ」

 そして、季節が一巡りする頃、みさきは学校の中を自由に走り回れるようになっていた。

 もちろん、私と走る時は広い庭を選んでいたけど。
 でも、昔のように元気に走り回るみさきに出会えて、私は本当に嬉しかった。



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