茶々 −4−
私は困っていた。
何とかして欲しくてみさきを見上げるのだが、みさきは気付いてくれない。
パタパタと尻尾を振って合図しようとして、それが出来ない事に気付く。
むう…どうしたものだろう。
庭に侵入してくる猫達なら、唸れば寄って来る事もないが、さすがにこの生き物に対して唸るのはまずいだろう。
しかし。
私は改めてその生き物を見た。
…この生き物は何をしたいのだろうか?
私の尻尾にしがみ付き、不思議な声で鳴いている。
…この生き物が何か、という点に付いては疑問の余地がない。
人間だ。
しかも、生まれて間もない子供だ。
みさきは、私の首輪をしっかりと握っている。
これはつまり、抵抗するな。という意味だろう。
私も、子供に対して噛み付いたりするつもりはない。
でも、尻尾がそろそろ痛くなってきたんですけど…。
「大人しい犬ねぇ」
子供の親とおぼしき人間がそう言った。
たしか、オネエさんという名前だった。
「うん、茶々は大人しいし凄く頭が良いんだよ」
みさきは我が事の様に自慢する。
こうなっては抵抗するわけにもいかない。
「だぁ…きゃぁう! あばぁ」
バンバン。
いきなり腰の辺りを叩かれる。
…痛くはなかったけど、これは辛い。
「こぉら、耕ちゃん駄目よぉ、犬さん、痛い痛いって言ってますよぉ」
オネエさんはそんな事を言いながら子供を抱き上げた。
ようやく解放されたか。
…ちょっと疲れた。
子供っていうのはなんであんなにも元気なんだろう。
と、みさきの手が、私の背中を優しく撫でてくれた。
「茶々、ご苦労様。偉かったね」
うむ、私は偉いぞ。
もっと誉めてくれ。
まだちょっと痛む尻尾をパタパタと振る。
「でもみさきちゃんも、もう高校3年かぁ。どう、好きな男の子とか、いる?」
「えーと…いない、かな?」
みさきはちょっと困ったような顔をしている。
「駄目よぉ、あのね、目が見えない事なんて気にしちゃ駄目。本当に好きなら、関係ないんだから」
「んー…そう…ですね。でも、好きな男の人なんていませんから」
***
オネエさんは、イトコという種類の人間らしい。
意味は判らないけど、みさきに良く似た匂いの人だった。
子供と共にオネエさんが帰った後、みさきと私は、何をするでもなく部屋で転がっていた。
私もくたびれたけど、みさきも疲れていたんだろう。
はふぅ…。
みさきは溜め息をついた。
「疲れたねぇ」
パタパタと尻尾を振って同意をアピール。
「そうだよね。茶々はおもちゃになってたしね。ご苦労様」
みさきは私の背中から尻尾までをごしごし撫でてくれた。
「お姉さん、耕ちゃんを見せびらかしたくてたまらないみたいなんだ。私には見えないけど、でも子供って可愛いと思うよ」
私も子供は嫌いじゃないぞ。
みさきの子供ならきっと良い遊び相手になると思う。
みさきはまだ子供は産まないのか?
「…でも、私は子供は無理だよね…手探りで抱っこなんて恐いよ」
?
みさきの声から元気がなくなった。
私はみさきの顔を舐める。
こうするとみさきはいつも元気になる。
「あはは、茶々、くすぐったいよぉ」
ほら。
元気になった。
「あ、そうだ。あのね、学校に私の場所があるんだよ」
みさきの場所?
縄張りの事かな?
縄張りは大切だぞ。
ちゃんと見回りしないと。
「今の季節限定なんだけどね。それで最近そこにね。男の子が遊びに来てくれるんだ」
みさきは楽しそうにそう言った。
みさきが楽しいと私も楽しい。
「この前もね、一緒に商店街に行こうって誘ってくれたんだよ」
商店街…昔、みさきと一緒に行った場所だろうか?
コロッケがある所だったような気がする。
「…でも、行けなかったよ…駄目だよね、私。浩平君の事は…嫌いじゃないけど」
急に声が暗くなる。
みさきが駄目だなんて事はないぞ。
みさきはいつだって優しくて強くて賢い。
群れのリーダーはそういう物だ。
「私のハンディキャップは、私だけの物にしないといけないよね…」
***
みさきは、小さな机に向かって、さっきから一生懸命何かをしていた。
小さな棒を持っている。
あれはペンという物だ。
「う〜ん…茶々〜、これ、何に見える?」
みさきが紙を私に見せる。
左上と右下が黒くて、中の白い所に何か線が引いてある。
…首を傾げるしかない。
「…兎に見えない…事もないよね? 可愛く描けてるといいんだけど」
みさきはペンを持ち替え、再び机に向かった。
手探りで紙の向きを整える。
「えーと…あ、け、ま、し、て…お、め、で、と、う…ご、ざ、い、ま、す……それと…今、年、も、よ、ろ、し、く…お、ね、が、い、し、ま、す…と。」
小さな紙に線が埋まって行く。
同じような紙が、もう何枚も何枚も。
「外で一緒に遊べないからね。年賀状くらいはきちんと出さないと駄目なんだよ」
みさきが滅多に外に出ない事は知っている。
でも、学校で遊べば良いじゃないか。
あそこは遊ぶ場所だぞ。
みさきもあそこには毎日の様に遊びに行っているじゃないか。
「えーと…うん。これで全員分かな。お母さんに見てもらった方が良いよね」
***
「えーと、これと…それからこれ。この2枚は良く描けてるわね」
お母さんはみさきの描いた紙を眺めている。
「他のも、読めないって程じゃないし、心がこもってるから大丈夫」
お母さんは笑顔でそう言って、みさきに紙の束を手渡す。
「うん、ええと、じゃあ、宛先書くから手伝ってね」
「でも、珍しいわね。いつもは一番出来の良い1枚を教えてって言うのに」
「う、うん。仲の良い友達が増えたから」
みさきはなんだか困ったような声でそう言った。
「そうなの? で、アドレス帳は?」
「あ、ええと、これ」
小さな本をお母さんに渡し、みさきは台所の椅子に座った。
「あ、お母さん、表はこっちかな?」
「ええ、上下もあってるわよ。で、今上になっているのが出来の良いのね」
みさきは、紙の形を手でなぞる。
そしてペンを取り出して、いきなり書き始める。
「最初は雪ちゃんだから…」
しばらくして、みさきの手が止まった。
「出来た、かな?」
みさきの声に、お母さんがみさきの手元を覗き込む。
「どれどれ? …うん、これなら届くわ…で、アドレス、読む?」
「う、うん…ええと、折原」
お母さんは小さなん本を開く。
その手が止まる。
「…お…おりはら…と、折原浩平?…男の子?」
本から目を上げず、お母さんが呟く。
みさきの肩が震える。
「う…うん」
「へぇ、そうなんだ」
「ななな何が?」
みさきが慌ててる。
敵か?
でも、ここにはお母さんしかいないぞ?
「……………住所、読むわよ」
「誤、誤解だよぉ」
お母さんは嬉しそうに笑っていた。
***
静かだった。
ただ、のんびりと。
静かに流れて行く時間。
そばにはみさきがいて、私に触れてくれている。
昨日までの騒がしさが嘘のようだ。
お父さんもお母さんも、静かにテレビを見ているのだろう。
さっきまで、みさきも一緒に、いつもとは違う器で、いつもとは全然違う物を食べていた。
私も、今日は大きな肉を貰った。
「お正月だから、お年玉だって」
みさきはそう言っていた。
そう言えば、前にもこんな事が何回かあった。
お正月というのはきっとそういう物なのだろう。
「みさき〜、年賀状、届いたわよぉ」
お母さんが呼んでいる。
「茶々、行こ」
***
「ええと、これが雪ちゃんね。印刷で謹賀新年。その横に手書きであけましておめでとう。今年もよろしくお願いします。もうすぐ卒業だけど、卒業しても宜しくね。って書いてあるわ…雪ちゃんにはちゃんとお礼言わないとね」
コタツに入ったみさきは、お母さんが紙の束を読むのを聞いていた。
「それで…と。あ、折原君からね」
新聞を広げていたお父さんが、新聞をガサリと揺らした。
「あけましておめでとう。今年もよろしく。特にメッセージはないのね」
「そ、そうだよ。だって、ただの後輩だし」
「そか、年下か」
お母さんが楽しそうに呟く。
「あー…」
お父さんが何かを言い掛ける。
「あなたは黙ってて」
「…」
しゅんとするお父さん。
気持ちは分かる。
私もお母さんのあの声には逆らえないんだ。
「さて、じゃあ次ね…」
***
その日の夕方。
玄関の方から小さな音が聞こえた。
カタン。という小さな音。
なんだろう?
なぜか私はそれが気になって仕方なかった。
みさきのそばでうろうろと歩き回る。
こうすると、みさきはいつも私を庭に連れて行ってくれる。
「あ、茶々、トイレ?」
みさきは部屋のドアを開けて、一緒に玄関に出てくれる。
外に出ると、門の手前に座ってみさきを待つ。
すぐに、靴をはいたみさきが出てくる。
顔だけ振り向いて、尻尾を振る。
「あれ? トイレじゃないの?」
さっきの音はここらから聞こえていた。
みさきには聞こえなかったのかな?
「ええと…寒いから中入ろう…あ、そうだ」
みさきは門の中に付いている箱に手を入れた。
「…あ、御正月じゃ夕刊はないよね…あれ?」
みさきの表情が変わる。
驚きの表情のまま、箱から取り出した紙をそっとなぞる。
その表情はすぐに笑顔に変わる。
「あけめしておめでとう。茶々」
嬉しそうな笑顔。
良く分からないけど、みさきが嬉しいなら私も嬉しい。
とりあえず尻尾を振ってみる。
みさきは玄関を開けたまま、家に駆けこんでいった。
「お母さ〜ん、これの差出人見てくれる?」
「ええと…あら、点字の年賀状? …へぇ…うん、やっぱりみさき、人を見る目はあるのね」
「え?」
「…この年賀状ね。折原君からよ」
「え? だって、二枚も?」
「良い子みたいね。でも、どうやって点字なんて打ったのかしら?」
「ええと…」
「これ、裏から補強した方が良いわね」
楽しそうな声。
嬉しそうな声。
お父さんは何か言いたげだったけど。
でも、みさきも。
それからお母さんも本当に楽しそうで。
…だから、私も嬉しくて、楽しくて。
ちぎれそうになる位尻尾を振っていた。
いつまでも、この嬉しさが続く事を願って。
今のみさきの笑顔を、ずっと見ていられる事を願って。
[戻る]