茶々 −5−

 朝。
 まだ、暗い内から私達の朝は始まる。
「茶々、起きてる?」
 みさきが私を呼んでいる。
 起きあがり、尻尾を振りつつみさきの足元まで駆け寄る。
 チャッチャッチャと、爪が床に当って音を立てる。
「おはよう…それじゃ行こうか」
 うむ。

 部屋から出るといきなり寒い。
 が、この程度の寒さなら大丈夫。
 私もみさきも暑いのは苦手だけど寒いのは得意だ。
「ええと…走れば暖かくなるよね?」
 パサパサと尻尾を振って同意を表明する。
「今日も貸切だと良いね」 

 みさきは、誰もいない学校の庭で私と遊ぶ。
 夜が明ける前。
 まだ空が白む前から校庭を走り回る。
 私は全力で校庭を走る。
 普段、みさきと一緒にじっとしているだけに、こうして全力で走るのは本当に気持が良い。

 みさきは私の散歩紐に付けた鈴の音を追いかけて走る。
 時々、見当違いの方に走ろうとするみさきだけど、私が吠えるとすぐに方向転換をする。
 だから、最近のみさきは壁にぶつかる事も少なくなった。
 それでもたまに、信じられないほど大きな音を立てて壁にぶつかったりもするが、そういう時はすぐに私が駆けつけて、ぶつけた所を舐めてあげる事にしている。
「大丈夫だよ。浩平君の頭突きにも負けなかったんだから」
 うむ。
 負けない事は良い事だ。
 頑張ってみさきの縄張りを守って欲しい。
 でも、浩平君という言葉を口にするみさきはとても楽しそうで、だから多分それは縄張り争いの敵とは違うのかもしれない。

 走るのに夢中になると、いつもみさきの姿が見えなくなる。
 そんな時、私はみさきの匂いを辿り、すぐにみさきの元に駆け戻る。
 今日は校庭の水道の後ろにみさきはしゃがんでいた。
「あ、また見つかっちゃった。茶々は賢いね」
 うむ。
 私は賢いぞ。

 朝の散歩はいつも私が疲れる位の時間続く。
「茶々〜、もう帰るよ〜」
 みさきが呼んでいる。
 私は一声吠えてみさきの足元まで駆け寄った。
 ここで一緒に帰らないと置いて行かれてしまうという事は、かなり前に覚えた。
 そして置いて行かれるとお腹が空くんだ。

  ***

 家に帰るとみさきはすぐに暖かい水で水浴びをする。
 みさきのこの習慣は構わないのだが、時々私の事を洗おうとするのは勘弁してもらいたい。
 その後すぐに朝食。
 私はみさきの足元に座り、みさきの出してくれた物を食べる。
 みさきは椅子に座り、時々だけど自分の食べている物を私に分けてくれたりもする。
「茶々、これ好きだよね?」
 今日は食パン。
 焼いていない白いままのそれは、昔、みさきが私に持ってきてくれた給食のパンの味を思い出させてくれた。

 食事が終るとみさきは着替えて学校に行く。 
 残念ながら、この時は私は留守番だ。
 お母さんと一緒に、みさきとお父さんを見送り部屋で転がる。
「あの子、最近、毎朝早いわよねぇ…学校で折原君って子と合ってるのかしら」
 お母さんは洗い物をしながら私に向かって話し掛けている。
 でも、難しい事を聞かれても分からないぞ。
「茶々、見てきてくれない? …って無理よねぇ」
 うむ。
 人が沢山いる時は学校に入っちゃいけないってみさきも言ってたぞ。

  ***

 最近、みさきの様子が少しおかしい。
 突然不安そうな顔をして、ぼんやりする事が多くなった。
 いつもなら、私が体を摺り寄せるとすぐに笑ってくれるのに、なぜか、軽く背中を撫でられるだけだったり。
「…卒業か」
 と、寂しそうに呟いたり。
 不安そうにしているみさきを見ていると、私も不安になる。
 わけもなく恐くて、不安で、いつもよりもみさきに触れている時間が増えていた。

 ただ、学校での屋上という場所を巡っての浩平君という敵との縄張り争いについて私に離してくれる時だけはなぜかみさきは嬉しそうだった。
「今日はね、私の負けだったんだよ」
 負けたのにみさきは嬉しそうに笑った。
「でも、明日は負けないんだから。茶々も応援しててね」
 勝っても負けても構わないみたいだけど、みさきにはいつも勝ってほしいぞ。
 私は尻尾を振ってみさきの頬を舐めた。

  ***

「そうなの? ええ…そうね」
 お母さんが一人で機械と話している。
 知ってるぞ。
 あれは電話って言うんだ。
「ええ、いつもありがとうね」
 お母さんは小さく溜め息を付いて受話器を置いた。
「あら、茶々。茶々も心配なの?」
 ??
 何が?
 とりあえず尻尾を振る。
「卒業したら、みさき、家の中以外に見える世界がなくなっちゃうのよね…」
 大丈夫。
 学校はなくならないぞ。
 これからだって、学校で一緒に走れるんだ。
「せめて、誰か、好きな人でもいれば良いんだけど…相変らず男の子の友達はいないみたいだし」
 あれ?
 そうだったっけ?

  ***

「ただいま〜」
 玄関からみさきの声。
 出迎えた私は少しだけ違和感を感じた。
 ?
 あれ?
 みさきの匂いがおかしい?
 いつもなら雪ちゃん位しか匂いがまざってないのに、知らない人の匂いが混じっている。
 …あ。
 知らなくないかもしれない。
 前にも何回か、みさきはこの匂いを付けて来た。 
 …あれ?
 でも、やっぱり知らない?
 ええと…うん。
 知らないかな。やっぱり。
 みさきは部屋に入るなり、私の首を抱え込んで頬擦りをしてきた。
「茶々〜、浩平君に抱きしめられちゃったよ」
 ?
 こーへーくん。
 知らない名前だ。
「ちょっと意地悪したら泣いちゃったんだよ。私、きっと悪い事したんだよね」
 みさきはたまに意地悪だけど、悪い事なんてないぞ。
「誰だって、触れられたくない事ってあるもんね」
 うむ。
 私もみさき以外の人に尻尾を引っ張られるのはあまり好きじゃないな。

  ***

 みさきは最近、毎日電話をする。
 あんな機械と話して何が楽しいのかは判らないけど、本当に嬉しそうにみさきは話す。
「…えっと、川名です」
 しばらく、じっと聞き耳を立てている。
「昨日も電話したよ」
 くすくす笑っている。
「うん」
 何が楽しいのだろうか?
「それで明日のことなんだけど」
 まぶしい位のみさきの笑顔。 
「うん。それで浩平君は今日学校に来ないの?」
 ここ暫くなかった位、みさきの声は本当に嬉しそうだった。
「卒業式に出席する人は、明日の準備があるから、学校あるよ」
 卒業。
 その名前を出す時、みさきはいつも、少しだけ悲しそうな顔をする。
 多分、卒業というのはみさきの敵の事だ。
「やっぱりだね」
 何がだ?
 みさきの事を見上げて尻尾を振ってみる。
 でも、みさきは気付いてくれない。
「私も、多分知らないだろうなって思って電話したんだよ」
 …ちょっと寂しい。
「うん。もうすぐ始まるから急いでね」
 みさきはゆっくりと受話器を置いて、ほうっと溜め息を吐いた。
 みさきの制服の裾を軽く噛んで引っ張る。
「あ、茶々、いたの?」
 いましたとも。ええ。

  ***

 その日。
 みさきは寂しそうで、でも嬉しそうで、そんな不思議な表情で学校に出掛けた。
「みさきも卒業ね」
 みさきを見送ったお母さんはそんな事を呟き、私の背中をぽんぽんと叩く。
 卒業ってみさきの敵じゃないのか?
「茶々、今日は御留守番、よろしくね」
 私は尻尾を振ってそれに応えた。
 いいけど、どこか行くならお土産だよ。

 御昼前にお母さんは外に出る時の匂いをさせて学校に行った。
 私はどうもあの化粧というのの匂いは苦手なんだけど。

 お母さんが帰ってきたのはお昼位だった。
 玄関でお母さんを出迎える。
「あの娘、今日はもう少し学校にいるんだって」
 お母さんはそう言って、ちょっと複雑な表情を見せた。
「友達ともお別れだしね。でも、本当にここまで来たんだね」
 ここってどこ?
「茶々も頑張ってくれたね」
 何を?
 良く判らないけど尻尾を振ってみる。
「うん。今日は茶々にもご馳走あげようね」

  ***

 卒業の次の日。
 みさきは珍しく。本当にいつ以来だか判らない位久し振りに。
 一人で家を出た。

 私は昨日に引き続きみさきの部屋で留守番だ。
 みさきが出掛けてから暫くして、お母さんが掃除機を持って部屋に来た。
「あら? なんで茶々がいるの?」
 さあ。
 なんででしょう?
「みさきと一緒に散歩に行ったんじゃないの?」
 そう言われ、しゅんとして尻尾を丸めてしまう。
「…雪ちゃんと出かけたのかな?」
 それは違う。
 …あれ?
 みさきは、じゃあ、一体誰と出掛けたんだろう?
 知っている筈なのに知らない。
 ええと?

 そして。

 夜になってもみさきは帰ってこなかった。

「そう、ありがとう…そうね。お願い」
 お母さんは電話と話している。
「…茶々、みさき、どこに行ったか判らない?」
 さあ?
「雪ちゃんも知らないって言ってるし…心当たりを探してくれるって言ってたけど」
 みさきが…いない?
 良く判らないけど、お母さんは慌てている。

 それから暫く、不安なままの時間が流れた。
 お母さんは夕食の支度をしながら、時計と電話を交互に見ている。

 と、玄関の方から音が聞こえた。
 私は玄関に向かうと、お母さんも付いて来る。
「茶々、どうしたの? みさきが呼んでるの?」
 これはみさきじゃない。
 私が玄関につくなり、玄関のドアが開いた。
「あ、雪ちゃん…みさきは見つかった?」
「…いえ…って事はまだ帰ってないんですね…学校は探したんですけど見つかりませんでした。オバ様は家で待っててください…そうだ。茶々」
 雪ちゃんが私を見ている。
 珍しい、真剣な表情。
「茶々、みさきの匂い、追える?」
 追う?
 みさきとの追い駆けっこなら得意だぞ?
「…無理かな…でも…うん。オバ様、茶々、借ります!」
 はい?
「そうね。そばにいればみさきの事判るだろうし」
 お母さんは散歩紐を首輪に付け、それを雪ちゃんに渡した。
「それじゃ、行ってきますね」

  ***

「茶々…あんたのご主人様がどこに行ったか判る?」
 玄関を出て学校の前。
 雪ちゃんは私にそう尋ねてきた。
 みさきの匂い…。
 学校の前が一番強い。
 その辺りの地面の匂いを嗅いで見る。
「…茶々?」
 多分、みさきはここに立ってたんだ。
 微かな匂いが続いている。
 それは沢山の匂いに紛れ、今にも消えそうだったけど。
 でも、私が。
 この私がみさきの匂いを間違える筈がないじゃないか。
 少しの不安と、嬉しい匂い。それが混じったまま、みさきの匂いは学校の回りの歩道を通っている。
 雪ちゃんは息を呑んだまま、私の後を付いて来る。
 紐についた鈴が、チリチリと小さな音を立てるたび、私はみさきの匂いを思い出す。
 大丈夫。
 ちゃんと追い付ける。
 でも…。
 さっきからみさきとずっと一緒にいるこの匂い。
 これは一体誰なんだろう?
 知っているような気もするし、知らないような気もする。

「公園? みさきはここにいるの?」
 みさきの匂いはどんどん強くなって行く。
 でも、なぜだろう?
 なんだか、空気にみさきの悲しい時の匂いが混じっている。
 私は顔を上げて空気を嗅いで見た。
 うん。
 間違いない。
 みさきの匂いがする。
 みさきが悲しんでいる。

「ウ…オォォーーーーーーン」

 喉を逸らし、空を見つめる様にしてみさきを呼ぶ。
「ちょ、ちょっと茶々?」

「ウ…オォォーーーーーーン」

 静かに。

 絞り出す様に。

 遠くまで届く様に。

 みさきが帰って来る様に。

 みさきが悲しまないで済む様に。

「ウ…オォォーーーーーーン」

 私は遠吠えをして、みさきを呼んだ。

「どうしたのよ、茶々…」
 雪ちゃんは辺りを見回しながら私に声をかける。
 でも、そんな暇があったら雪ちゃんもみさきを呼んで欲しいんだな。
 私だけの声じゃ、みさきに届かないかもしれないじゃないか。

 みさき。
 私はここにいるよ。
 もう、怖くないよ。
 もう、寂しくないよ。
 だから。
 一緒に帰ろう。

 空気に混じる匂いが少しだけ変わった。
 私の声に気付いたのかな?
「ちょ、茶々!」
 雪ちゃんを引っ張って走る。
 チリチリと鈴がなり、私の居場所をみさきに伝える。
 みさきの匂いがどんどん強くなる。
 私は更に走る。
 この茂みの向こう。
 ガサガサと茂みを潜る。
「こら! 私が付いていけないでしょう!」
 雪ちゃんが何か怒鳴っているけど、そんな事は気にならない。
 だって。
「…茶々…なの?」
 だって。
 みさきがここにいるから。



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