『雪見』



 その日、いつもの様にオレが教室で惰眠をむさぼっていると。
 ガッ。
 突然両側から腕を取られ、立ち上がらされた。
「な…住井?」
 俺の左手を取っているのは住井だった。
「折原、面会だ」
「面会?」
「3年の深山さんだ」
 深山先輩が何の用だ?
 オレは首を傾げた。
 みさき先輩関連かな?
 ちなみに右手を取っているのは沢口だった。
「…」
 何か言いたそうな目付きでオレの事を見る沢口。
「何だ?」
「…いや、とにかく廊下だ。里村さんも待っている」
 茜も?
 はて?
 深山先輩と茜の繋がりが見えず、オレは首をかしげた。

 深山先輩と茜。廊下で待っていたのはこの二人に加え。
『こんにちわ』
 澪はそう書かれたスケッチブックを手に、ニコニコしていた。
 なるほど、茜と深山先輩の接点はこいつか。
 ぐわしぐわし。と、ちょっと荒っぽく澪の頭を撫でてやる。
 はうー。
 と、嬉しいんだか困ってるんだか良く分からない表情でオレを見上げる澪。
「…かわいそうです」
 オレの手をどけて、くしゃくしゃになった髪を撫で付ける茜。
「そか? 喜んでるみたいだけど」
「折原君って本当に変わってるわね」
「…みさき先輩の幼馴染に言われたくないぞ」
「う…まあ、その、それはこっちに置いといて」
 置いといて。の所で澪と深山先輩は、揃って横に箱をどける動作をする。
 …演劇部ってこういう練習をしてるのか?
「実は浩平君にお願いがあるのよ」
『お願いなの』

  ***

「みさき先輩を更正させる?!」
 放課後、演劇部の部室に連行されたオレは、驚愕の声を上げた。
 ……そうか。
 見た目はお嬢様だが、実はみさき先輩って…。
 そう言えば異様に打たれ強かった。
 それに、あのヘッドバットは素人のそれじゃない。

 捨てゴロみさき。
  「わたしはこの頭突きだけでのし上がるんだよ!」

 川名組。
  「この道、極めさせて貰うからね」

 漆黒の女王。
  「夜はわたしに近しい物なんだよ」

 そんなフレーズが脳裏を過ぎる。

 …オレは何て恐ろしい相手に体当たりしてしまったのだろう。
「…何か勘違いしてない? 私はみさきを自立させたいから協力して欲しいって言ってるだけなんだけど」
「自立って?」
「ああ、もう!」
「…一人で商店街を杖を使って歩けるようにしたいから、協力して欲しいそうです」
 なんだ。
「それならそう言えば…」
 回りくどい言い方するから。
「最初っから言ってるわよ!」
 ぜいぜいと肩で息をする深山先輩。
「…浩平と話す時はこの程度で疲れていては駄目です」
 うんうん。
 深く頷く澪。
「…そうね」
 納得する深山先輩。
 …ひょっとして失礼な事言われてるのか?
「所で、茜はみさき先輩とは面識あったっけ?」
「…上月さんに紹介されました」
 どうやって紹介したのか、気になる所だな。
「とにかくっ!」
 バン。と机を叩き、深山先輩は話を進めた。
「みさきは一人で歩く事が出来ないの、大きなお世話と言われようとも、私はみさきが一人で街を歩けるようにしてあげたいのよ」
「えーと、その前に確認なんだけど」
 素朴な疑問。というか、根本的な疑問と言うか…。
「何?」
「みさき先輩の目が見えないのは知ってるけど、いつも学校内を走り回ってるぜ。なのに外を歩けないって?」
「…みさきにとって、この学校と自宅以外は未知の世界よ。私が手を引いて歩く事だって嫌がるくらいなんだから」
 深山先輩は溜め息を付いた。
「…嘘だろ?」
 校内を走り回るみさき先輩の姿が脳裏に浮かんだ。
 …あれで、外を歩けないって?
「本当よ。折原君、目隠しして歩いてみた事ある? 例えばそれが自分の家とか自分の部屋なら、目隠ししてもある程度歩けるわよね」
「…そりゃ、自分の部屋なら目をつぶってても何がどこにあるか分かるけどさ」
「じゃあ、目隠しして街中を歩ける? 恥ずかしいとか、そういうの抜きにして」
 …街中を?
「そんな危ない事…」
 あ。
 何となくだけど、分かったような気がする。
「分かってくれたみたいね」
「ああ、で、澪と茜も協力するのか?」
 うん。
 笑顔で澪が頷き、その横では茜が無表情に頷いていた。

  ***

 作戦1

「私から行かせてもらいます」
 妙に嬉しそうに茜がそう言った。
「何をするつもりだ?」
「これを食べてもらいます」
 そう言って茜が取り出したのは、山葉堂の持ち帰り用の箱だった。
 蓋を開けるなり、強烈な甘い香りが漂う。
 …ここまで強烈な甘さを感じさせるワッフルとなると、アレしかないだろう。
「川名先輩は食べるのが大好きだと聞きましたから」
「…でも、それを食べさせてどうするんだ?」
 あまりの甘さに気分が悪くなった所を拉致って、外の世界に連れ出すとか?
「世の中には美味しいものが沢山あります。それを知れば、自分から外の世界に出て行く様になる筈です」
「「却下!!」」
 オレと深山先輩は同時にそう言っていた。
「…なぜですか?」
 不満気な表情の茜。
「逆効果よ。いくらみさきが何でも食べるとは言っても、別にゲテモノが好きなわけじゃないのよ?」
 余程、匂いが効いたのか、或いは、過去に食べた時の事でも思い出したのか、深山先輩の顔色はかなり悪い。
「…ゲテモノ…」
 ワッフルに視線を落し、じっと見つめる茜。
「だって、それ、山葉堂の一番甘いアレでしょ?」
『あますぎるの』
「…美味しいです」
 深山先輩の目が点になった。
 茜は、ワッフルを一つ取り出し、口に運んだ。
 そして、一口。
 途端に、嬉しそうな笑顔が零れる。
「やっぱり…美味しいです」

  ***

 作戦2

「次は大丈夫でしょうね」
 何だか、責めるような表情でオレの事を見つめる深山先輩。
「大丈夫だ。任せてくれ」
 オレ達は放課後の昇降口に集まっていた。
「で、折原君は何をしようって言うの?」
「ふ、オレのネタは既に仕掛けてあります。後はみさき先輩が来るのを待つだけだ」
「…あまり期待しない方が良いです」
 …どんな作戦でも、茜のアレよりはましだと思うんだが。
「あ、みんな静かにして!」
 深山先輩が小さな声で警告を発した。
 見ると、みさき先輩が廊下の角を曲がって真っ直ぐにこちらに向かってくる所だった。
 …目が見えないなんて微塵も感じさせない足取りで、みさき先輩は3年の下駄箱に向かった。
 ちなみに、みさき先輩の下駄箱は一番上の角だ。
 目が見えないのでは、自分の下駄箱を探すのも一苦労だろうし、当然と言えば当然の配慮だろう。
「?」
 みさき先輩が唐突に振り向いた。
「誰? 雪ちゃん?」
 物音一つ立てていないのに何で分かるんだ?
「…」
 しかし深山先輩は無言のまま、息を殺していた。
「えーと…気のせい、かな?」
 みさき先輩はほんの少し照れくさそうにそう言って、下駄箱から自分の靴を取り出した。
 カサッ。
 微かな音。
「あれ? えーと…」
 音は下駄箱の中から聞こえた。
 手を伸ばし、自分の下駄箱の中を探るみさき先輩。
 すぐに、その手は下駄箱の中の封筒にたどり着く。
「うー…またゴミが入ってたよ。私の下駄箱、ごみ箱じゃないのに…」
 クシャ。
 みさき先輩は封筒を丸め、それを鞄に入れると、何事もなかったかのように帰って行った。
 …。
 ……。
 ………。
「折原君、要するにあの封筒が折原君の作戦の要なわけ?」
 えらく声が冷たい。
「ああ…偽造ラブレター書いた。公園で待ってます。って…」
「みさき、自分一人じゃ、手紙読めないわよ?」
 声だけじゃなく、視線も冷たい。
 ああっ、茜と澪まで睨んでる!
『デリカシーに欠けるの』
「そこは、ほら、深山先輩に相談して読んでもらうとか、出来るだろうから…でも、まさかゴミ扱いされるとは思わなかったぞ」
「まあ、みさきに、下駄箱の中にゴミを入れる人がいるって教えたのは私なんだけどね」
 何?
「目の見えないみさきにラブレターを寄越す馬鹿者がいたから…中学の時にね」
 オ、オレは馬鹿者ですかぁ?!
 深山先輩の目は、その通りよ。と言っていた。

  ***

 作戦3?

 はうー。
 と、俯く澪。
 どうやら良い作戦が立てられなかったようだ。
「澪は作戦なしか」
 うん。
 と力なく頷く。
「…急なお話でしたから、仕方ないです」
「何とか、みさきを自分から出歩くように仕向けたかったんだけど、これは強引に連れ出すしかないかしら」
 深山先輩はそう言って一つため息を吐いた。
「どうするんですか?」
「そうねぇ…折原君がみさきを公園まで引っ張っていく。なんてのはどうかしら」
 みさき先輩を?
 脳裏に風景が浮かんだ。

   嫌がるみさき先輩の腕を掴んで公園まで引っ張っていくオレ。
  「浩平君、離してよ。私は嫌だからね!」
  「おとなしく着いてきて下さい」
  「ヤダー! 誘拐だよー! お母さん助けてー!」
   …これじゃまるでオレが犯罪者じゃないか?

「…念のため聞いておきますけど、冗談ですよね?」
「本気だけど?」
 ナニ言ってるの?
 と言わんばかりの表情で不思議そうに深山先輩。
「だって、それってオレがまるで犯罪者じゃないですか!」
「全てはみさきのためよ。本当なら私がやる所だけど、非力な私じゃみさきを公園まで連れて行くなんて出来ないわ」
 とてもそうは見えないんですけど。
「こんな事したくはないけど、全てはみさきの為なの。分かって、折原君」
「深山先輩」
 オレは深山先輩の目を見つめた。
 そして一呼吸おいて重々しく。
「思いっきり、楽しそうな表情をしてますよ」

  ***

 どの作戦も非常に惜しい所までは行ったのだが、惜しくもみさき先輩を外に連れ出すには至らなかった。
 決定打を欠いたまま、オレ達は公園で作戦の反省会を開いていた。
「里村さんのアイディア。餌にあのワッフルを使う。という以外は使えるわね」
 エサ…ですか?
「…おいしい…です」
 茜は思いっきり不満そうだ。
『お寿司にすれば良いの』
 その作戦の致命的な弱点は、金がかかり過ぎる事だ。澪。
「折原君の作戦は…まあ、着眼点は悪くないわね。断ろうにも断れない方法で強引に約束を取り付ける。それ位強引じゃないとみさきには通用しないかもしれないわね」
「じゃあ、次は電話で呼び出してみよう」
「無駄よ。みさきがどうやって人を見分けていると思ってるのよ」
 あ、声でばれるか。
「仕方ないわね、本当に一度、強引に連れ出そうかしら……痛」
 急に深山先輩がお腹を押さえた。
「深山先輩?」
 見れば、急に顔色が悪くなっている。
 額に脂汗も浮いている。
 これは。
 …この症状は昔見た事がある。
「腹下しですか?」
「違…う…わよ」
 なんだ、七瀬の時と似てたから、そうだと思ったのに。
「どいて下さい」
 茜がオレをどかして深山先輩の隣に座る。
 小声で何回かやりとり。
 横で澪が踊っている…いや、うろたえてあたふたしているのか。
「浩平、救急車を呼んで下さい。盲腸かもしれません」
 深山先輩をベンチに横たえ、膝枕をしながら茜がそう言った。
「この公園に呼べば良いのか?」
「はい、動かさない方が良いと思いますから」
「分かった」
 この公園の名前、なんて言ったかな。ま、高校の裏の公園で通じるか。
 深山先輩は苦しそうに眉根を寄せ、体を震わせている。
「…ぅくぅ!」
 体を折り曲げる様にして痛みに耐える様子は、見ていられなかった。
 オレは、上着を脱いで深山先輩に被せてから電話を求めて走り出した。

  ***

「で、こうなるわけか」
「…はい」
 急性盲腸炎で腹膜炎を併発しかけていた深山先輩は、病院に運び込まれるなり緊急手術。
 今時、盲腸なんて大した事はないと思っていたが、悪化して腹膜炎まで併発すると、命に関わる事もあるらしい。
 幸い、深山先輩の場合は、腹膜炎の範囲も狭く命に関わるほどのものではなかったそうだが、暫くは病院のベッドの上で過ごす事になるそうだ。

「雪ちゃん、切った所痛くない? 何か欲しいものあれば持って来るから遠慮しないで言ってね」
 ここ暫く、みさき先輩は毎日深山先輩のお見舞いに来ている。
 深山先輩が倒れた日も、オレから連絡を受けたみさき先輩は病院までやってきて、手術室の前で深山先輩が出て来るのを心配そうな表情でじっと待っていた。
 まだ、一人で病院と自宅の行き来をさせるのは不安だという全員の意見で、オレ達はみさき先輩に付き合う形で深山先輩のお見舞いに参加していた。
「とりあえずは間に合ってるわ」
 それはそうだろう。
 みさき先輩は毎日の様にこまごましたものを持ってきているみたいだし。
 深山先輩は笑みを漏らした。
「あ、そうだ、お見舞いの果物とか、私、食べられないから、みさき、持って行っても良いわよ」
「うーん、嬉しいんだけど、お見舞いに来て物を貰って帰るなんて、何だかおかしいよ」
 と、言いつつも、果物の甘い香りに気を取られているのは一目瞭然だ。
「あ、上月さん、副部長にこれ、届けてもらえるかしら?」
 そう言って、深山先輩は、封筒を澪に手渡した。
 うん。
 と頷きながらも首を傾げる澪。
「次回の公演のキャストとかね。今回は私、多分参加できないから」
 深山先輩はそう言って、少し寂しそうに微笑んだ。
 ぶんぶん。と首を振る澪。
 そして、深山先輩のベッドに顔を埋める。
 深山先輩はそっと、その髪を撫でた。
「大丈夫。ちょっとは残念だけど、落ち込んでないから…それでね、今回は私が上月さんの演技指導をする事にしたから。だから、私の分まで頑張るのよ」

  ***

 深山先輩の退院はクリスマス・イブだった。
「良いタイミングで退院出来ましたね」
 前日に聞いていたオレ達は、退院して自宅に戻った深山先輩を見舞っていた。
「そうだね、明日から冬休みだもんね」
 みさき先輩も、どこか楽しげだ。
「でも毎日悪いわねぇ。自宅療養って言っても、腹膜炎の治療が長引いた分、盲腸のほうはすっかり治ってるし、ホントに完治したような物なのよ」
「知ってますよ。ね、みさき先輩」
 と、みさき先輩に振りつつ、澪に目配せする。
「うん。だから、今日はお見舞いじゃないんだよ」
 みさき先輩が後ろ手で合図する。
 スケッチブックを見開きにして、赤と緑の模様で飾り付けられたページを見せる澪。

『メリークリスマス!
 HO−HO−HO−なの!』

 呆気に取られた様な表情の深山先輩。
「と、いうわけで、深山先輩。退院のお祝いとクリスマスパーティをしに来ました」
 お見舞いの品。という風に置いていた紙袋から、シャンペンを取り出してみせる。
 ケーキは匂いでばれそうだったので、台所に置かせてもらっている。
 ちなみに、この企みは、深山(母)の許可も取ってある。
 まあ、そのせいでシャンペン以上のアルコールは一切禁止されてしまったけど、病み上がりの深山先輩もいる事だし、仕方ないだろう。
「メリークリスマス、雪ちゃん。久しぶりだね、雪ちゃん家に来るのって」
 つい最近まで、出歩く事を嫌っていたみさき先輩は、嬉しそうにそう言った。
「…ええ、そうね。本当に久しぶり、ね」
 深山先輩はそう言いながら袖口で目元を拭う。
 優しい人なんだな。本当に。
『感動のシーンなの』
 と、茶々を入れる澪を。
「じゃ、食料を運んでこよう」
 と、促す。
 邪魔をしてはいけないと思ったのか。
 うん。
 と、元気良く頷いて、澪はオレと一緒に階下に下りた。

  ***

「深山先輩。二人だけになっちゃいましたね」
 澪。
 深山先輩のベッドで熟睡中。
「ええ、そうね」
 みさき先輩。
 深山先輩に寄り掛かるようにして、これもまた熟睡中。
 起きてるのは二人だけだ。
「二人ともアルコール、とことん弱いんですね」
 飲んだのはお子様用シャンペンのみ。
 みさき先輩は、ブランデーを使ったケーキを大量に食べていたから、それもあるのかな?
「雰囲気に酔ったのよ。きっと」
 そう言う深山先輩も目元がほんのりと赤くなっている。
 そっと手を伸ばし、みさき先輩の顔にかかっている髪を整え、慈母の様な優しい笑みを浮かべる。
 …綺麗だな。
 ふいにそんな言葉が口から出そうになって、慌てて深山先輩から目を逸らす。
「でも、困ったな。みさき先輩がいるから、食料とか、6人分位買ってきているんだけど、これじゃ残っちゃいますね」
 ケーキは定番の丸いケーキとブッシュ・ド・ノエル。
 目が見えなくても簡単に食べられるように、フライドチキンは避け、ナゲットを山盛り。ポテトフライも山盛り。
 その他、乾き物多数。
 この山、どうしたものかな?
「大丈夫よ。みさきに持って帰ってもらえば問題ないわ」
 と、深山先輩がクスクスと笑い出した。
「でも、みさきも幸せよねぇ、こんな風に好きになってもらえて」
 …?
「折原君。みさきって本当に良い娘なのよ。泣かせたら怒るからね」
「あの、深山先輩、何の話?」
「あ、その深山先輩って他人行儀よね。せめて深山さんか雪見先輩って呼んでくれない? 演劇部に入部するなら部長でも可よ」
 えーと、呼び方はこの際どうでも良いんだけど。
「じゃ、深山さん…ひょっとして酔ってる?」
「酔ってないわよ。この程度、ジュースみたいなものじゃない」
 それはそうだけど。
 でも、それで轟沈しているのが二人もいるし。
 と、それはさておき。
「オレ、別にみさき先輩の事は…」
 そりゃ、一緒にいると楽しいけど。
「嘘。見てれば分かるわよ」
「本当ですって…深山さん、やっぱり酔ってますね」
 どうして女の子は、何でも好きだの嫌いだのって話に持って行きたがるのかな。
「なら、上月さん? それとも里村さんとか?」
「だぁっ! 今の所そういうのは考えてません! 以上。これでこの話は終り!」
 なぜかイライラして、つい大きな声を出してしまう。
 深山さんは驚いたようにオレの顔をみつめていたが。
「ふぅん。ふふ」
 と、意味ありげに笑った。
「じゃあ、私。とか?」
 ふいに、ついさっき深山さんが見せた優しい微笑みが脳裏をよぎる。
 急に顔が熱くなる。
「だ、だから、もうこの話は終りですって」
 なぜか吃ってしまった。
 オレも酔ってきたのか?
「お、折原君、冗談よ、冗談…その…顔、赤いわよ」
「窓開けよう、窓。少し空気を入れ替えないと」
「そ、そうね。少し暑くなってきたし…って、私はちょっと動けないから、折原君よろしくね」
 みさき先輩に寄り掛かられたまま、深山さんは照れくさそうに笑った。

  ***

 年が明け、休みが終る。
 何となく深山さんやみさき先輩といる事が多くなったオレは、ふと気付くと、演劇部で深山さんの付き人のような事をしていた。
 澪の演技指導の協力。小道具、大道具。照明や音響の手伝い。それからみさき先輩の見張りに、深山さんの荷物持ち。
 演劇部でのオレの仕事は尽きる事がなかった。

「じゃあ、折原君、上月さんの斜め前に立って。そうね、後一歩後ろ…そう、そこ。それじゃ上月さん、折原君を指差す所から始めて」
 澪の役には当然の事だが台詞がない。
 しかし、脇役とはいえ、澪は役をこなして観客に何かを伝えなければならない。
 ボディランゲージだけが澪の台詞だ。
 表情は大切な要素だが、舞台の上の人間の表情は、大きな変化しか伝える事は出来ない。
 だけど、ボディランゲージだと、かなり離れた所からでも感情を読み取る事が出来る。例えば、手を伸ばすと言った動作一つ取っても、躊躇や、勢いを容易に表現できる。
 そうした一つ一つの動作が言葉になる…らしい。
 全部深山さんの受売りだけど。

「はい、良いわよ。あ、折原君、悪いけど、みさきを連れて、このメモの物を買ってきてくれない?」
「え? みさき先輩とですか?」
 荷物持ちはオレの仕事だから、みさき先輩の社会復帰に向けたリハビリも兼ねているのかな?
「ええ、女物の服とかだから、折原君一人じゃ可哀想でしょ?」
 そう言いながらも、深山さんは片手で拝む様にしながらウィンクしてきた。
 みさきを頼むわよ。って所だな、これは…って、考えるまでもないか、そんなもん。
「分かりました。じゃ、みさき先輩、行こう」
 窓際で外を向いていたみさき先輩に声をかける。
「えーと、私、今忙しいんだよ」
 ちなみにみさき先輩は何もしていない。
 多分、外の音を聞いていたんだと思う。
 目の見える人の動作に翻訳するなら、ぼーっと外を眺めていた。という所か。
 最近では、みさき先輩もオレや深山さんが一緒なら、ある程度は街を歩けるようになってきていた…なってきてはいたが、未だに外は恐いらしい。
 まあ当然か。
「みさき、折原君に女物の下着まで買わせるわけには行かないでしょう?」
 …そんなものを買いに行かせようとっ?!
「うー、分かったよ…浩平君、あんまり手をやかせないでよね」

  ***

「深山さん、そろそろ帰らない?」
 部活が終り、簡単な後片付けを終えたオレ達は、連れ立って部室を後にした。
 みさき先輩や、他の部員達はもうあがっている。
 いつもは最後まで残っている澪も、今日は家の用事だとかで一番に帰っていた。
 学校を出て、いつもの様に深山さんを送る。
 もちろん荷物持ちは付き人であるオレの役目だ。
 校門を出た所で、深山さんは、正面の一軒の家を見上げた。
 言わずと知れたみさき先輩の家だ。
「ねえ、折原君。そろそろ付き人みたいな事、しなくても良いわよ」
 みさき先輩の家を見上げたまま、深山さんはそう言った。
「え、それって演劇部、クビって事ですか?!」
 わざとおどけて見せる。
 深山さんは小さく首を振った。
「そうじゃなくて…折原君、付き人の真似しながら私の荷物持ちしたり、送ってくれたりしてるじゃない…何でなの?」
 まっすぐにオレの目を見つめる深山さん。
「みさきの友達だから? 上月さんの先輩だから? それとも…」
 そこまで言ってからすっと目を逸らす。
「…深山さんだから。それと病み上がりだから。これじゃ駄目かな? …その、勿論、深山さんの事は大好きで…って、そんなおかしな意味じゃなくて、ただそのオレ、病気とか怪我にはちょっと過敏なところがあって…」
 ふと気付くと深山さんはクスクス笑っていた。
「やっぱり優しいんだ。みさきが言った通りだわ」
「は?」
「みさきがね、浩平君って変わってるけど、優しい良い子だよって言ってたわ」
 良い子って…ま、良いけど。
「あ、そうだ、そう言えばまだあのお礼、言ってなかったわ…折原君、私が倒れた時、上着、かけてくれたわよね。ありがとう、嬉しかった」
 深山さんはそう言って、オレの腕をかかえた。
「あ、あの、深山さん?」
 そのまま、腕に縋りつく様にしながら、ちょっとだけ上目遣いにオレの顔を見上げた。
「ちょっと疲れたわ。病み上がりは駄目ねぇ、今日は杖代わりになって貰うわね」

  ***

 翌日。
 演劇部に出たオレを、みさき先輩と澪が待ち構えていた。
『今日は杖代わりになって貰うの』
 おい。
「浩平君、私の杖にもなってね♪」
 こら。
『病み上がりなの』
 思いっきり元気じゃないか。
「私ってば目が見えないから、杖は必需品だし」
 学校内に限って言えば、みさき先輩には不要でしょうが。
 …こいつら、一体。
「はーるがきーたー、はーるがきーたー、どーこーにーきたー♪」
 みさき先輩が歌い出す。
 シャンシャンシャン。
 澪、そのタンバリン、どこから出したんだ?
「深山さん、なんであの二人…」
 苦虫を噛み潰したような表情の深山さんに訊ねてみる。
「…みさきの家の前だって事を忘れてたのは失敗だったわ」
 みさき先輩に見られてた?
 いや、待て。
「見えない筈なのに、何で?」
「声で全部判っちゃうのよ、みさきは」
 …なるほど。
「…ゴメンね、折原君」
 オレが一人納得していると、深山さんがオレの側にやってきて、囁くような声でそう言った。
「何がですか?」
「なんだか、私なんかと噂になっちゃって」
 みさき先輩と澪が騒いでいるため、既に他の部員にもある程度事情というか、昨日の出来事が伝わってしまっている。
 今日は部内で終りだろうけど、明日にはこの噂、各学年で広がるんだろうな。
「オレは気にしませんよ。むしろ深山さんとなら歓迎ですって」
 軽く。
 本当に軽くオレはそう言った。
 誰が聞いても冗談だって分かるように。
 でも。
 深山さんは真っ赤になって俯いていた。
「深山さん?」
「わ、私ってこういうのにあんまり免疫ないから…もう、そんな事、さらっと言わないでよね」
 真っ赤になった顔を、台本を読む振りをして隠しながら、それでも、何だか嬉しそうな口調で深山さんはそう言った。
 そして。
「雪ぃがぁ溶けて川ぁにぃなぁって流れていきます もーすぐはーるですねぇ、恋をしてみませんか♪」
 みさき先輩はいつの間にか別の歌を歌っていた。

  ***

 土曜日。
 オレは深山さんに部室に呼ばれ、部室に顔を出していた。
「あ、折原君。丁度いい所に来てくれたわね」
 深山さんの声は部室の奥。大道具等が置かれた辺りから聞こえていた。
「どこですか?」
「奥。衣装箱の整理しているのよ」
 オレは、大道具の陰に回り込んだ。
「そろそろ、古い衣装を虫干ししないといけないのよ。折原君にはそれを手伝ってもらおうと思って」
「…そりゃ構わないけど…他の部員は?」
 いつもの土曜日なら、みんな稽古をしている筈なんだけど。
「今日は体育館のステージが使えるから、そっちでね」
「深山さんは行かないんですか?」
「そろそろ2年生にも頑張ってもらわないといけないから、今日は留守番。側にいるとどうしても口を挟みたくなるから」
 そっか、もうすぐ深山さんは卒業するんだ。
 そう考えた途端、オレは胸に痛みを感じた。

「うわぁ、懐かしいわねぇ」
 深山さんが『また』何かを発見したようだ。
 さっきから、10分と置かずに深山さんはこうやって何かを発見しては、懐かしいモードに突入していた。
 おかげで整理だけで手いっぱいで、今日中に虫干しまでは出来そうになかった。
 だけど、そうやって喜ぶ深山さんはとても可愛くて、深山さんの手が止まる度にオレも深山さんに見惚れて、二人して作業が進まない。という状況に陥っていた。
「今度は何ですか?」
 オレは、白いシーツの様にも見える布を抱きしめた深山さんに訊ねてみた。
「女神様の衣装よ。これ、私が初めて台詞のある役をやった時のなのよ」
 単なる白い布の固まりに見えるそれは、深山さんにとっては大切な思い出の品なのだろう。
「へぇ、見てみたかったな」
「残念ね。折原君が入学する前の事だから、それは無理だったわね」

 結局、その日は箱を一通り開けて、いる物といらない物を分別するだけで終わってしまった。
「虫干しは明日ね。朝から干せば、午後には終わるかしら?」
 ぼそっと、深山さんが呟いた。
「明日も来るんですか?」
「ええ、明日も天気は良さそうだしね…あ、でも明日は私だけで良いわ。今日整理した衣装を干すだけだから」

  ***

 日曜日。
 来なくても良いとは言われていたけれど、暇を持て余していたオレは学校に来ていた。
 …いや、正直に言うなら、深山さんの笑顔に会いたかったから。か。
 人気のない校舎はオレの日常にはない風景で、自分の足音すら響く静寂にオレは違和感を感じていた。
 演劇部の部室に入ろうとしたオレは、ドアに鍵がかかっている事に気付いた。
「あれ、深山さん、まだ来てないのかな?」
 と。
 ガタン! 
 大きな音が部室の中から聞こえてきた。
 そして。
「…折原…君?」
 深山さんの声。と同時に鍵が開く音。
「あ、いたんだ」
 言いつつ、部室に入る。
「あれ?」
 深山さんは既に大道具の影に隠れてしまった様だ。
「あ、折原君、ドア、鍵かけておいてくれる?」
 奥でごそごそやりながら深山さんがそう言ってきた。
「あ、ああ」
 良いのかな?
 密室に二人きりになっちゃうけど。
 一瞬、そんな考えが頭をよぎり、慌ててそれを打ち消し、言われた通りに鍵をかける。
 でも、なんで鍵かけるんだ?
「えーと、深山さん?」
「あ、あはは、今日はどうしたの?」
 大道具の影から焦ったような声。
 …なんか怪しい。
「いや、暇だったからさ…」
 と、言いながら大道具の影を覗きこむと。
「……深山さん?」
「う…」
 白い長衣のような衣装に身を包んだ深山さんが目の前にいた。
 これは、昨日見つけた女神様の衣装。だったかな?
「ちょ、ちょっと懐かしくて……やっぱり、変よね」
 照れくさそうに笑い、ちょっと困ったような表情を見せる深山さんに、オレはなんだか暖かい物を感じた。
「ああ…いや、うん、綺麗だ」
 白い衣装が白い肌に映える。
 これでスポットライト当てたら輝いて見えるだろうな。
 そんな事を考えながら、オレは衣装を身にまとった深山さんを飽かず眺めていた。と、深山さんが俯いてもじもじし始める。
「あの…折原君、恥ずかしいから、その、あんまり見つめないで」
「あ、ごめん。でも、舞台に立っていると思えば視線なんて気にならないんじゃない?」
 正直なところ、もっと見ていたかった。
「…折原君は…特別だから」
 耳まで真っ赤になって、小さな声で、でもはっきりと深山さんはそう言った。
 一歩。
 たった一歩だけオレは深山さんに近付く。
 それだけで二人の間の距離はなくなった。
「深山さんは、オレにとっても特別だから」
 そっと、深山さんの頬に触れる。
 深山さんはオレの手に両手を添え、そっと頬擦りをした。
「だから、見ていたい…ずっと」
 深山さんは小さく頷いた。
「私も…私も折原君になら見ていて欲しい、かな…」
「深山さん」
 ほんの少し、手を顎の方に滑らせる。
 その意図を察したか、深山さんが緊張するのが分かった。
「…ねぇ、二人だけの時は…名前で呼んで」
「雪見さんも、ね」
「…うん…浩平君」
 そして、雪見さんは瞼を閉じた。

  ***

 月曜日。
「あれ? 土日で虫干ししなかったんですか?」
 一年生の演劇部員が、衣装箱を覗き込んで不思議そうにそう言った。
「あ、そ、それね、ちょっと忘れちゃってて、明日早く来て、朝から干しておくわ」
 雪見さんは、少し焦った様にそう答えたのだが…演劇部の部長さんならもう少し上手にお芝居しても良いと思うんだけどな。
「はあ…でも、明日は天気崩れるみたいですよ」
 横でそのやり取りを聞いていたみさき先輩が。
「雪ちゃん、今日はなんかおかしいよ」
 と、口を挟んできた。
「何でもないわよ。ええ、ほんと、何でもないの」
「…ひょっとして、またお腹痛いの?」
 …あ。
「いい痛くなんかないわよ」
 あー、そんな風に否定したんじゃ。
「痛いんだね?」
 バレバレである。
『部長、具合悪そうなの』

 結局、その日、雪見さんは風邪気味と言う理由で部活を途中で切り上げる事になった。
「じゃあ、浩平君、雪ちゃんをお願いするね」
『寄り道しないで送るの』
「おう、任せてくれ」
 多分…オレのせいだろうし。

  ***

 水曜日。
「おはよ、みさき先輩」
 遅刻ギリギリの時間でみさき先輩が駆け込んでくる。
「浩平の知り合い?」
 そっか。長森は知らないんだっけ。
「演劇部の関係者だ」
 オレはみさき先輩を長森に紹介…。
「えーと…ごめんなさい、どなたですか?」
「みさき先輩、何ふざけてるんだよ! 浩平! 折原浩平だよ! ほら、一緒に深山先輩のお見舞い行っただろ?」
 どうしてだろう。
 もしも、声を聞き違えたのなら名前だけ告げれば良い筈なのに。
 オレは雪見さんの事まで口にしていた。
「雪ちゃんの? ……あ、うん、浩平君だね。ごめんね、声、間違っちゃった。見えないと駄目だね」
 みさき先輩はそう言ってぎこちなく笑った。
「いや、良いんだ」
 仕方ないんだ。
 なぜか、そう感じていた。
「で、こっちのが長森」
「あの、初めまして、長森瑞佳です。浩平が御世話になってます」
「うん、私は川名みさき。よろしくね。えーと、瑞佳ちゃんだね。浩平君のお姉さん…にしては苗字が違うね?」
「あ、私は…」
 長森が何かを言いかけた時、チャイムが鳴った。
「しまった、遅刻寸前だった!」
 だからどうなる。というわけでもないが、なぜかスピーカを見上げるオレ達。
「浩平君、またね!」
 そう言いながらみさき先輩が走り出す。
「おう、じゃ、長森もまたな!」
「同じクラスだよ!」
 いつもと同じ筈の今日。
 だけど、何かがどこかで狂い始めていた。

  ***

 金曜日。
 目が覚めたら午後だった。
 長森が迎えに来なかった。という事か。
 一昨日のみさき先輩。
 昨日は住井達。
 そして今日は長森。
 付き合いの短い順に、オレに関する記憶がみんなの記憶から抜け落ちて行く。

 どうしてこんな事になったのかは理解できない。
 だけど、何が起きているのかは理解できている。
 でも、一番肝心な、どうすれば良いのか。という事は分からなかった。

 …二度と再び、雪見さんがオレに微笑みかけてくれる事はないのか。
 そう考えると、胸が張り裂けそうだった。
 …そして悲しかった。
 一昨日のみさき先輩の様に。
 昨日の住井達の様に。
 オレが目の前にいても、見知らぬ他人として通り過ぎられてしまう。
 それがただ、悲しかった。

 トゥルルルル…。
 電話が鳴っている。

 トゥルルルル…。
 今は誰の声も聞きたくない。
 だから、早く切ってくれ。

 トゥルルルル…。
 …しつこい!
「…はい」
『あ、折原君?』
 …まさか。
「雪見…さん?」
 恐る恐るそう訊ねる。
 付き合いの長い順に忘れていくのだとしたら、雪見さんがオレの事を覚えている筈がない。
 そう思っていたから。
『そうだけど? …何よ、私の声、忘れちゃったの?』
 でも、不満そうにそう答えた雪見さんの声は、本当に普段通りだった。
 …覚えていてくれたんだ。
 まだ、完全に忘れ去られたわけじゃなかったんだ。
 そういう安堵は確かにあった。
 だけど。
 それが他の誰でもない雪見さんだったという事が、ただ嬉しかった。
「い、いや、電話だと声が変わるからさ」
 慌ててそう答える。
 ちょっと声が鼻にかかってしまった。
 もう二度と聞く事が出来ないと思っていた雪見さんの声を聞いて、オレは頬を伝う涙を止める事が出来なかった。
『そっか、そうよね。所で今日はどうしたのよ、みんな心配してるわよ』
「…え?」
 …みんな?
『部活には参加してもらうからね…待ってるから、必ず来るのよ』
「あ、ああ…あの、雪見さん」
『何?』
 雪見さんの声は、平静そのものだった。
 でも、だとしたら何で、みさき先輩や長森は…。
「…いや、何でもない。部活、少し遅れるから」

 制服に着替える。
 台所に寄ってみたが、朝食は用意されていなかった。
 由起子さんもオレの事を忘れているのかもしれない。
 でも、少なくとも雪見さんはオレを覚えていてくれている。

 夕べから食欲がなくて何も食べていなかった。
 少し安心したせいか、空腹を感じるようになっていたオレは、棚から菓子パンを取り出してかじる。
 牛乳で流し込みながら、なんとなく長森の事を思い出す。
 そういえばオレ、雪見さんの事、殆ど何も知らないんだな。
 好きな物。
 好きな歌。
 好きな色。
 好きな事。
 …好きな人。
 …これはオレであって欲しいけど。
 もしもオレに時間があるのなら、その全てを雪見さんを知る事に費やしたい。

 オレは、学校への走り慣れた道を、一人で走り出した。




  ***










 そして、その日、浩平君は演劇部に来る事なく、姿を消してしまった。
 最初からそんな人はいなかったかの様に世界は、いつもの日常を繰り返す。










  ***




「雪ちゃん…」
 みさきが心配そうに声をかけてくれる。
 でも、返事をする事も億劫だった。
 あの日。
 みんなが浩平君の事を忘れていたあの日。
 浩平君は必ず来るって言ったのに。
 部のみんなに、折原浩平って言う人が来て、みんなの知り合いみたいに振舞うから、アドリブの練習するわよって言って、お芝居しようと思ったのに。
 そうすれば、みんなも思い出すと思っていたのに。

 …だけど、浩平君は来なかった。

 そして、私の記憶と身体と、それから世界のあちこちに微かな痕跡を残したまま、この世界から消え去ってしまった。
 上月さんのスケッチブックに残った、浩平君との会話した時の台詞。
 みさきが捨て忘れて、鞄の奥で潰れていた下駄箱のゴミ。
 浩平君が作った大道具。
 でも、それだけだった。
 みさきも上月さんも里村さんも、誰も、浩平君の事を覚えていなかった。
 どこを探しても浩平君はいなかった。
「明日は卒業なんだよ。雪ちゃんがそんなだと、私、悲しいよ」
 卒業までにみさきを、一人で街を歩けるようにしてあげたい。
 そんな風に思っていたのに。
 今では逆に心配されている。
「…みさき、ごめんね」
「それは良いけど…雪ちゃん、最近おかしいよ、何かあったの?」
 …おかしいのは私?
 それともこの世界?
 どちらでも大した違いはない。
 浩平君のいない世界。
 それは、悲しくて、寂しい世界だった。

  ***

 浩平君に似た声を聞く度。
 浩平君に似た後ろ姿を見かける度。
 私はその姿を探してしまう。
 冷静に考えれば、こんな風に誰も浩平君を覚えていない状況で、浩平君に会えるとは思えない。
 浩平君なんて最初からいなかったんだ。
 幻だったんだ。
 私の理性はそう告げている。
 でも。

 会いたい。
 会いたい。
 会いたい。
 きっと帰ってくる。
 きっとまた会える。
 浩平君は間違いなくここにいた。
 あの日、浩平君は来てくれなかったけど、いつか必ず来てくれるって信じてる。
 きっとまた、あの優しい笑顔に会える。温もりに触れることが出来るって信じてる。

   私の心は、哀しい位に強情だった。

 時々、浩平君との思い出を辿るように街を歩く事がある。
 後輩の様子を見ると称して、演劇部を覗きに行く事もある。
 そのたび、私の心は浩平君が帰って来るという確信を深める。

   だけど、帰って来るわけがない。
   人間が、こんなにも完全に姿を消すなんて出来るわけがない。

 上月さんのスケッチブックに書かれた、浩平君との会話の欠片。

   そんなものは、私が勝手に浩平君との会話の欠片だと思い込んでいるだけよ。

 捨て忘れ、みさきの鞄の底で潰れていた、浩平君の書いた偽造ラブレター。

   浩平君が書いた証拠は?
   どこを見ても、浩平君の名前なんて、書いてないじゃない。

 誰も作った記憶のない大道具。

   昔から部室にあったんじゃないの?
   人間の存在を忘れるよりも、よっぽどありそうよ。

 それじゃあ、私のこの想いは何?

   錯覚よ。

 私が倒れた時、上着をかけてくれたのは誰?
 救急車を呼んでくれたのは?
 みさきを呼んでくれたのは?
 上月さんの演技指導に付き合ってくれたのは?
 私の事をずっと見ていたいと言ってくれたのは?
 これが全部幻なら。
 全部が錯覚だというのなら。
 どうして私はこんなにもはっきりとその顔を、声を、触れた手を、唇を、浩平君の優しさを、その全てを覚えているの?

 浩平君。
 私は信じてるからね。

  ***

 本を入れた鞄を自転車のカゴに放り込む。
 図書館で一月前に借りたままの本。
 みさきの事、笑えないわね。
 思いっきり自転車のペダルを踏み込む。
 そろそろ暖かくなり始めた風は、優しく私の髪を撫でて行った。

   浩平君がいなくなってからもうすぐ一年が過ぎようとしていた。

 図書館の返却棚に借りていた本をそっと置いて、新刊を覗きに行く。
 この図書館、返す時に顔を合わせなくても済む所が良いのよね。
 ちょっとオーバーしても気軽に返しに行けるし。

 ざっと新刊を眺めて、特に面白そうな本を見つけられなかった私は、久しぶりに高校の方を回って帰る事にした。

 浩平君がいると思っているわけじゃないけど。
 風は気持ち良いし、散歩がてらよ。うん。

   会えなかった時の失望感を少しでも減らす為に、そんな風に自分に言い聞かせる。

 みさきは家にいるかしら?
 電話しておけば良かったわね。
 私は、学校によるついでにみさきの様子を見ていこうと思い始めていた。

 それは、高校裏の公園のそばを通った時だった。
 ずっと先の方を走る一人の高校生の姿が目に留まった。

   …まさか。

 高校の男子の制服。

   でも、あれは…。

 見慣れた後ろ姿。

   浩平君?!

 自転車をこぐ足に力が入る。
 他に何も目に入らない。

   あれは。
   あの後ろ姿は。
   間違えるわけない。

   浩平君!!

 直後。

 ドン!
 強い衝撃と共に世界が回転した。

 キキーーーーッ!
 ゴムの焼ける匂い。

 バタンッ!
「だ、大丈夫ですか?」

 浩平君は?!

 倒れた身体を起こし、さっきまで浩平君らしき人が走っていた方を見る。
 …誰もいなかった。
 また…錯覚だったの?
 …浩平…君…。
 私の意識はそのまま闇に飲まれた。

  ***

 真っ白い天井。
 真っ白いシーツ。
 真っ白いベッドカバー。
 特有の消毒薬の匂い。
 静かな様でいて、ざわざわとざわめきが絶えることなく続く。
 時折、看護婦さんのものだろうか、走る足音も聞こえたりするけど、それはすぐにざわめきの中に消えて行く。
 そんな不思議な静寂は唐突に破られた。
「雪ちゃん!」
 みさきが病室に駆け込んでくる。
 …あ、看護婦さんが驚いてるわ。
 そりゃ、目が見えない筈の人を案内してきてこれじゃ、驚くわよね。
 思わず苦笑してしまう。
 看護婦さんに会釈してお礼をしてから、みさきに向き直る。
「みさき、どうしたの?」
「どうしたのじゃないよ! 雪ちゃん家に電話したら、交通事故にあったってオバさんに聞いて、本当に驚いたんだからね!」
 …お母さんに口止めしておかなかったのは失敗だったわ。
「大した事ないのよ、ちょっと転んだだけなんだから」
 自転車で余所見運転をして、自動車にぶつかっただけ。
 むしろ、相手の運転手さんに悪かった位の事故。
 救急車の中で意識を取り戻した私は、自分が救急車で病院に運ばれているという事に驚かされた。
 何しろ、転んだ時に膝と手をちょっと擦り剥いた程度の怪我しかしてなかったのだから。
「入院したって聞いて、本当にビックリしたんだから」
「ただの検査入院よ…ごめんね、心配かけて」
 みさきを椅子に座らせて落ちつかせる。

 でも、事故にあってからまだ半日とたってないのに、なんてタイミングで電話したんだろう。
「今日は何か用事でもあったの?」
「え?」
 きょとん。とするみさき。
「だって、うちに電話したんでしょう?」
「あ、う、うん。別に大した用事じゃないんだよ。うん」
 …何か隠している時のみさきは、本当に分かりやすい。
「みさき、良いから言って」
「うー…そろそろ暖かくなってきたでしょ?」
「ええ、そうね」
 窓の外の空は、そろそろ春の色を見せ始めている。
「でね、もうすぐ春だなって思ったら、ちょっと懐かしくなって」
 みさきとの春の思い出は数え切れないほどあるけど…。
 そうね。
 確かにどの思い出も懐かしいわね。

「去年の今頃だったよね」

 急患だろうか。
 急に廊下が騒がしくなる。

「はーるがきーたー、はーるがきーたー、どーこーにーきたー♪」
「何よ、急に歌い出して」
「忘れちゃった? それじゃ、こっちは?」

 …覚えてるわよ。
 忘れるわけないじゃない。

 ガチャ。
 病室のドアが開く。

「雪ぃがぁ溶けて川ぁにぃなぁって流れていきます♪」

 …一年間、凍っていた私の心が溶けてゆく。
 涙が溢れる。
 流れる涙がとても心地好くて、私は涙を拭いもせず、ただ、じっと見つめていた。
 懐かしい笑顔を。

「もーすぐはーるですねぇ、恋をしてみませんか♪」

 …してるわよ、もう。


Fin























後書き

とりあえず初校完成したのでアップです。
KOH版雪見シナリオ。
前に詩子を書いた時は、何も考えずに書いていたのですけど、今回はかなり考えながら書いています。
というか…良く書けたな、詩子シナリオ(^^;
あちらと比べると、こちらの出来はどうなんでしょう。
お話の構成とか、一切考えずに行き当たりばったりで書いた詩子シナリオに対し、こちらは起承転結や、ONEのシナリオ共通の部分(クリスマスイベント等)を考えながら書いています。

…考えず、ただ書いた方が良かった様な気もしますが(^^;

あ、文中の歌ですけど、歌詞の取り違えはわざとです。
みさき先輩の年齢で、あの歌を知っている方が不思議なくらいですので(笑)

もしも、少しでもあなたの心に残るお話を書けていたら、これに優る喜びはないのですが…

でわ(^^)/




で、Version2の後書き

いや、初校で、後半があっさりし過ぎという御指摘を頂いたので、とりあえず、初校作成時に削ったイベントを1つだけ復活させてみました。
てゆーか、これ削ったら入院している理由が分からないじゃないか(^^;
他にもイベントは色々とあったんですけど、長くなり過ぎるので削除したままです。
だって、『雪見』って、初校で既に原稿用紙45枚分。
現時点では既に50枚突破(笑)
『詩子』で大体40枚ですから、現時点で既に2割増量ですね。
一番最初に書いた時点では一体どれだけあったのやら(笑)
これでも結構削ったんですけどね。

でわ(^^)/

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