匿名希望さん 作

 絶え間なく響いていた銃声も、怒号も、悲鳴も、爆発音も。今は何一つ聞こえない。
 辺りは、痛いくらいに静まり返っていた。
 いかに鬼神のごとき強さを持つ青年と言えど、まったくの無傷とはいかない。
 暗闇から差し伸べた手には、多量の返り血と少しばかりの己の血。
「怪我は無いか?」
 そう声をかけるより先に耳に届いたのは。
「助けて……」
 という、恐怖に震えた声。
 差し伸べられた手は。
 だから、宙に浮いた。



「昔日哀歌 〜とらいあんぐる・ハート3異聞」





 青年に過去を懐かしむ時間などない。
 ただ、憶えているだけだ。
 胸が痛むほどに強く。
 いっそすべてを忘れてしまえれば楽になれる。
 けれど、忘れることなど出来はしなかった。
 少年だった日々を、あの確かに幸福だった日々を。
 そして……少女のことを。

 父がいて、母がいて、幼い妹がいて。
 そして、時折遠い異国からやってくる、優しい少女がいた。
 歌う声が好きだった。
 笑う顔が好きだった。
 温かい手も、綺麗な髪も好きだった。
 黒い翼と、不思議な力も好きだった。
 多分、お互いにとって、それは初恋だった。
 たくさんの季節を共に過ごした。
 たくさんの想い出が生まれた。
 ずっと、このまま幸せが続くのだと思っていた。
 御伽噺のように、ずっと。

 終わりは唐突だった。

 父が死んだ。
 ボディーガードを生業としていた父は、優しい少女をかばって死んだ。
 それが、父の誇りであり、強さであり、優しさだと知っていた。
 だから、誰も少女を責めなかった。
 誰一人、少女を責めなかったのに、優しい少女は自分を責めた。
 否。誰一人責めなかったからこそ、少女は自分を責めたのかもしれない。
 強く。強く。強く。

「私の背中にこんな呪われた翼があるから。だから……だからっ。ごめんっ……ね……ごめんね……」

 翼を拒絶し、力を拒絶し、そして何より、己を拒絶した少女は。

「あなたは……誰ですか?」

 記憶を……失った。
 楽しかったことも、嬉しかったことも、そしてあの想いも。
 すべては無かったことになった。

 そして、何も出来なかった自分を呪う様に、戦いの中に身をおいた少年は戦いの中で青年になり。
 少女は、あの日の闇を忘れたまま光の中を歩んでいって、美しい歌姫になった。

 幸福な日々を、失ったままに。

「どうした、不破。らしくないな、ぼうっとしているなど」
「いや、何でもない。続けてくれ」
 不破と呼ばれた青年は、目の前の自分より少し年上の男にそう答えた。
「警備の状況は今話した通りだ。俺たちの任務は、会場に紛れ込んだテロリストの殲滅だから、最終的には各自の判断で行動すること。以上だ」
 その言葉とともに、男たちは解散する。
「らしくない、か。この場所の、いや、彼女の……」
 一人呟くと、彼もまたその場から去った。

 海鳴コンサートホール。
 今日、このホールでは世界に名だたる、クリステラ・ソングスクールの卒業生である歌姫たちが一堂に会し、チャリティー・コンサートを開催することになっていた。
 控え室で開演前の準備にあわただしく動き回る美人ぞろいの歌姫たち。
 その中に、蜂蜜色の長い髪に、澄んだ湖のような蒼い瞳のひときわ美しい女性がいた。クリステラ・ソングスクールの歌姫の一人であり、スクール校長、ティオレ・クリステラの愛娘でもあるフィアッセ・クリステラである。
 彼女は、別の控え室から本番前の歌姫たちに声をかけにきた傍らの年配の女性、母であるティオレに尋ねる。
「ねぇ、ママ。前から聞こうって思ってたんだけど、どうしてコンサート・ツアーをするって決まったときに、日本のこの街を選んだの?」
「それは」
 彼女が答えるより先に、歌姫の一人であり、この海鳴を第2の故郷と公言してはばからないSEENAこと椎名ゆうひが、身を乗り出して答える。
「そりゃあ、うちが故郷に錦を飾るためって、そんなわけあらへんね〜。あはは、ちょっと言うてみたかっただけや」
 ゆうひとよく一緒に行動していることの多い、若き天才の名をもつ歌姫アイリーン・ノアの、心底呆れた様な表情を視界に捕らえると、ゆうひはちろりと舌を出しておどけた。
 そんなゆうひに優しい微苦笑をなげかけると、ティオレはゆっくりと答える。
「この街にはね、古い友人の家族がいるのよ。逢いに行けないけれど、とても大切な友人たちが……」
『逢いに行けないのは、私があの時、母としてのエゴを優先させてしまったから……記憶を消すほどに傷ついたフィアッセの為に、海鳴のあの優しい人たちに二度と逢わないと、逢えないと告げてしまったから……』
「逢いに行けないけれど、せめて、歌を届けたくてね」
『あなたたちのおかげで、私たちは今も歌を歌うことが出来ると、そう伝えたくて。それすらも、身勝手な想いなのだとわかってはいるけれど』
 ティオレの顔に、自嘲の笑みが浮かぶ。
「ママ……?」
 そんなティオレの姿に、哀しみの影を感じるフィアッセ。
 家族ぐるみでの付き合いがあるアイリーンには、ティオレの自嘲の笑みの訳も、逢いに行けない家族の事もわかっていた。
 だから、黙って目をそらせた。ティオレからも、そしてティオレの姿に理由を知らぬまま心痛めるフィアッセからも。
 心優しき人の哀しみを思い、ただ黙って目をそらすより他になかった。

 やがて、コンサートスタッフから開演15分前と告げられると、歌姫たちはいささか急ぎながらも、次々に優雅な足取りで控え室を出て行く。
 彼女たちがすべて出払うと、近頃は、忍び寄る病魔の影に歌を歌うとき以外はすっかり世話になっている車椅子と、それを押す教頭のイリアに身を任せ、ゆっくりと部屋を出るティオレ。
 その彼女に、すっと音も無く近づく人影があった。
「どうしたの、エリス?」
 その人影が、クリステラ・ソングスクールの専属警備会社の次期社長であり、自らも凄腕のボディ・ガードのエリス・マクガーレンと見て取ると、ティオレは声をかけた。
「ティオレ校長。会場内に少し不穏な動きがあります。例の脅迫状は、虚言ではなかったようです。それから」
 うつむき、一瞬その続きを言おうか、言うまいかと躊躇うエリス。
「どうしたの?」
 ティオレのいぶかしげな問いかけに。
「多分、今日の警備に参加している別の警備会社の人物だと思います、が、その……あの人に良く似た人物を見ました」
「あれから……そう、ずいぶん時間が過ぎたものね。あの小さな男の子が、大人になるには十分過ぎるほどの時間が」
 エリスの脳裏に、ちらりと、あの人、高町士郎の姿が浮かぶ。
 在りし日、彼とフィアッセと彼の二人の子供たちと遊んだときのことと。
 その彼が、フィアッセを庇って亡くなった時のことを。
 そして……

 並んで座る人たちの背中に、染み入っていくように低く響く声。
 異国の僧の読経は、まるで呪文のようだった。
 慣れぬ葬儀の作法の中、哀しみだけが確かにあった。
 その中に、すすり泣きさえ出来ないまま、うなだれる少女のフィアッセがいた。
「私の背中にこんな呪われた翼があるから。だから……だからっ。ごめんっ……ね……ごめんね……」
「違う、フィアッセのせいなんかじゃない!」
 哀しみで心をいっぱいにしてしまったフィアッセにはその声は聞こえない。ただ、心のままにその力の象徴である黒い翼を広げる。
 力の波動が空気を鋭く引き裂いていく。
「フィアッセ、フィアッセッ!?」
 あの少年、高町恭也が必死になってフィアッセを呼ぶ声がして。
「私、私はっ!」
 その小さな体いっぱいに膨れ上がった哀しみは、力の制御を不可能にしていく。
「フィアッセーっ!!」
 黒い光が……視界を覆った。
 光が収まったとき、そこには地に倒れ伏していたフィアッセと、最後まで彼女を守ろうと、血まみれになりながらも彼女の手を握り続け寄り添いながら倒れている恭也の姿があった。
 あの時、エリスはただ、近くで見ていることしか出来なかった。
 すぐに、2人は駆けつけた救急隊員によって病院に運ばれていった。
 断片的な記憶、それだけに深く刻まれているのは。
 面会の時の、ひどく生気の抜け落ちたようなフィアッセの顔。
 もともと表情に乏しかった恭也の、一片の感情すらうかがえないような顔。
 そして、ティオレが告げた残酷なひと言。
「あの子は……フィアッセは、すべてを忘れてしまったの」
 哀しみに耐え切れなかった心は、想い出を代償に壊れることをやっと逃れられたと、そう彼女は言っていた。
 だから、高町家の人々には謝りながら、ひどく身勝手なひと言を告げたとも。
「もう、二度と逢えない」
 と言う、ひと言を……
 
「恨んでいるのでしょうね、恭也は、私を」
 ティオレの声が、エリスを現在に引き戻す。
「それは」
 否定の言葉を口にしようとしたエリスを遮り、ティオレは言う。
「あの時、誰よりもフィアッセを心配してくれた恭也を突き放し、暗闇へと追いやった私を許すはずもないわね」
 ゆるぎない事実を確認するかのようなティオレの言葉に、エリスは返す言葉を持たなかった。

「フィアッセは無事なんですか!」
 目を覚ました恭也が叫んだのはその言葉だった。
 フィアッセが放った力の余波で、決して浅からぬ傷を受け、体中に包帯を巻いた姿で、それでもただフィアッセの身を心配している恭也を安心させるつもりでフィアッセに会わせた。ただ、それだけのつもりだったのだ。
 顔色は決してよくないものの、大きな怪我も無くただ静かに眠っているフィアッセに、そっと近づく恭也。
「フィアッセ……良かった……」
 その声が届いたように、フィアッセはゆっくりと目を開ける。
「Who are you(あなたは……誰ですか)?」
 虚ろな目をして、恭也にその言葉を投げかけたフィアッセ。
 そして、絶望が始まった……
 己が大切にしていたものを何一つ守れなかったと思い知った恭也は、ティオレの言葉を聞くと姿を消した。
 あたたかな居場所を捨て去り、自ら進んで闇の中へ身を投げた。
 優しい人たちから、恭也を奪ったのは自分だと思った。
 娘を大切にするあまり、恭也のことも、その家族のことも考えられなかった。
 性急に事を運びすぎ、大切な人たちとの絆を失ってしまった。
「ティオレ……」
 そんな自分を責めるでもなく、同じように罪を分け合おうとただ抱きしめてくれるアルバートの優しさが、嬉しくて辛かった。
 時はゆっくりと、だが、確実に流れた。
 人形のように虚ろな表情しか持たなかったフィアッセに少しずつ言葉が戻り、笑顔が戻った。
 懐かしくて辛い想い出のあの街からきたゆうひの励ましが、フィアッセに歌を取り戻させてくれた。
 そして、病によりもうすぐ命が尽きようとしている今、やっと、愛娘とともにステージで歌を歌うという夢が叶おうとしている。

「行きましょう、ステージへ」
 歌を歌う。それだけが、彼女に唯一残された希望であり、贖罪なのだから。
 
 コンサートが、幕を開けた。

 歌が流れる。
 歌姫たちはその魂を歌に変える。
 喜びも、哀しみさえも。
 個々人が、世界の第一線で活躍している歌姫たちが、声を合わせて歌い。
 時に、ただ一人でその舞台の中央に立ち。

 歌が流れる。
 それはひと時の奇蹟。
 声という目に見えない奇蹟。
 魂の歌は聴衆の魂にまた正しく響く。
 喜びの歌には笑顔を。
 哀しみの歌には涙を。
 ステージに立つ者と、客席に座る者。
 その魂が混然となり、天に舞い、地に潜る。

 会場の片隅で、油断なく周囲に気を配る青年、今は不破と名乗る恭也にもそれは届いた。
 遠い昔、いつも傍で聴いていた少女の歌声が、今、ステージで歌う美しき歌姫の歌声と重なる。
 溢れ出る記憶。

「ね、恭也。恭也も大人になったら士郎みたいな剣士になるの?」
 陽だまりの中で、少女が問いかける。
 大好きな少女が、大好きな笑顔を浮かべている。
 だから、その時誓ったのだ。
 父を越える剣士になると。
 そして、彼女を守ると。
 全てのものから。必ず。
 守ってみせると。

 つかの間、幼き日の幻がよぎる。
 そして思い知るのだ。
「まだ、こんなにも俺は……」
 その時、まるで恭也のそんな想いをあざ笑うかのように、鈍い爆発音が響いた。
 過去の優しい夢を振り払い駆け出す恭也の手には、二振りの刀。
「守ってみせる、今度こそっ」

 絶え間なく響いていた銃声も、怒号も、悲鳴も、爆発音も。今は何一つ聞こえない。
 辺りは、痛いくらいに静まり返っていた。
 そんな中、フィアッセは震えていた。
 幼子のように、ただ己が身を抱いて震えていた。
『イツカ、ドコカデ、コンナコトガ』
 混乱する記憶。
『アノ人ハ、ソシテ血マミレノ手ヲサシダシテ』
 顔を覚えていない誰かが、でも笑顔で。
 怪我をしてて、でも笑顔で。
「怪我は無いか?」と言ったのだ、あの時、確かに。
「助けて……」
 という、恐怖に震えたフィアッセの声は、誰に向けての言葉なのか。
 けれど今、差し伸べられた恭也のその手は。
 だから、宙に浮いた。

 不意に、フィアッセは目の前に誰かが立っているのを認識した。
 その人は、ひどく懐かしげな目をしてフィアッセを見つめていた。
 何も言わず、ただフィアッセを見つめている青年の視線に促されるように、俯いて震えていたフィアッセの顔が上がり、二人の視線が絡まる。
 コトリと。フィアッセの胸の中で、何かが音を立てた。
 一瞬。けれど、永遠に近い沈黙の時が過ぎる。
 形のない、けれど確かにそこにある何かを伝えなければと、フィアッセ自身にも訳がわからぬほどの焦燥感にかられ、躊躇いながらも青年に声をかけようとしたその時。
「フィアッセ、何処にいるの?」
 エリスの声が近くから聞こえて。
「あっ」
 そちらに気をとられた瞬間、青年は身を翻し闇の中へと消えた。
「フィアッセッ!怪我は無い?」
「あ、うん、エリス。ありがとう、大丈夫だよ」
「フィアッセ?」
 フィアッセは、エリスに返事をしながらも青年の消えた闇を見つめていた。まるでそこに、答えが隠されているかのように。

 数ヶ月後、幸いにも歌姫たちに怪我は無く、また、スクール校長ティオレの強い要望もあって、補修された海鳴コンサートホールでふたたびコンサートが開かれることとなった。
 そして、その当日。コンサート会場の片隅に、フィアッセを見つめていた青年、恭也の姿もあった。
 スクールの歌姫たちは、フィアッセの歌があの事件以来どこか変わったと言う。
 混じりけのない光そのものだったかつてのフィアッセの歌は、純粋ではあったが、それでいてどこか寂しげだったけれど、あれ以来、その寂しさが消えたような気がするとも。
 今、そのフィアッセの歌声が会場内に響き渡る。溢れ出る優しさと、想いと、そして少しだけの哀しみが歌になって流れていく。
 後に、光の歌姫と言われる彼女の、歌姫としての本当のスタートはここから始まった。
 その歌を背に聴きながら、恭也はゆっくり会場を去っていく。彼を待つ、戦いの世界へ。

 昔日哀歌。
 ただその胸に残りしものは。
 ひとすじの光とひとかけらの闇と。
 ひとしずくの……涙のみ。



<後書き……?>

 ずいぶん久しぶりのSSとなります。
 久しぶりに書いたSSは、自分でも、どうよ?と思うぐらい微妙な作品になりました。
 どのキャラも原作より、微妙に(人によってはかなり)暗め。
 特にティオレさんの性格が、違和感がありすぎと思ってらっしゃる方が多いのではないでしょうか。
 違和感ならまだしも、不快感をもたれた方、すみません〜。
 ラスト、フィアッセの歌っている歌なのですが、「See you 〜小さな永遠〜」(とらハ3ED)をうかべて下さいますと、とても嬉しいです。
 
 今回のイメージソングは、「Hungry Spider」(槇原敬之 アルバム「Cicada」)でした。

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