匿名希望さん 作
それは、長かった梅雨がようやく明けた頃。
街中のあらゆるものが熱気を帯びてくる季節、夏。
そんな季節が本格的にやってくる、そのほんの少し前に起こった出来事。
ささいな、それでいて当事者にとっては、とても。
とても大切な…出来事。
最も込み合う時間を何とか乗り切って、やっと一息ついた翠屋の店内。
今日はいちだんと凄かったなぁと、ちょっぴりぐったりな美由希。
そんな彼女を気遣いつつも。
「ねぇ、美由希。明日の土曜日の午後、空いてない?急にバイトさんが休みになっちゃって、フロアの人数が足りないのよぉ」
『桃子さんとっても困ってるのぉ』オーラをバシバシ出して訴える桃子。
「明日?えっと…」
暫く考えた後、友人との約束が日曜日である事を思い出して。
「いいよ、那美さんとのお出かけは日曜日だから、明日は別に予定は無いし」
あっさりと答える。
「ありがとうっ!ああ本っ当、親孝行な娘を持って、かーさん幸せ!」
祈るように手を組んで、ちょっぴりうるうるな瞳。
そんな桃子の様子に、ちょっと苦笑しながら。
「もう、大げさだよ、かーさんは。それはそうと、土曜日他に誰が出るの?人手足りないようなら、恭ちゃんにも頼んだら?」
「他のスタッフ?フィアッセでしょ、忍ちゃんでしょ、あと、風間君」
とくん。
愁の名前が出た途端、美由希の心臓が不自然なリズムを刻む。
でもそれは、決して不快なものではなくて。
あの日。
いきなり雨に降られた日に、図書館から翠屋まで一本の傘の中ですごした、短いような長いような二人だけのひと時。
車道を走る車が跳ね上げた水溜りの水から、身を呈して庇ってくれた愁。
びしょ濡れになったのに、美由希に怪我がなくて良かったと言ってくれて。
濡れた事なんか何でもないことのように笑う。
笑顔。
あの笑顔を見てしまった時から。
何故か。
愁の名を聞く度に。
愁の声を聞く度に。
愁の笑顔を見る度に。
不規則になっていく…鼓動。
「…希。…由希。美由希っ」
「え、な、何、かーさん」
いつのまにか、ぼんやりしてしまっていたらしい美由希を、心配そうに見る桃子。
「やっぱり疲れてる?疲れてるんだったら、明日は」
「あ、ち、違うよ。ちょっとぼんやりしてただけ」
「そう?ならいいんだけど」
まだ少し心配そうな桃子に笑顔を返し、タイミングよく鳴ったドアベルの音にふり返る。
「ほら、かーさん、お客さんだよ。お仕事、お仕事!」
さて、そんなことがあった次の日。
混み合う店内で、フィアッセ、美由希、忍、愁、それに結局暇だから手伝うと申し出た恭也が、忙しく働いていた。
土曜日や日曜日は、平日以上に若い女性客が多い。
翠屋の美味しい洋菓子をお目当てに来る女性が多いのも事実だが。
黙々と接客業をこなしている恭也の隙のない整った容姿と、時折見せる接客スマイル。
そのギャップに、決して少なくない数のファンがついているせいでもある。
「ありがとうございました」
微かに笑う口元から、白い歯がキラリ。
それだけで、来週も絶対にこのお店に来ようと、固く固〜く心に誓う女性客が続出しているらしい。
…ダイエットは明日から〜、とか何とか。
無論。
そこへたどり着くまでには、フィアッセと忍の教育と、恭也自身の涙ぐましいまでの努力があったことは言うまでもない。
さて、そんな恭也目当てのお客さんとは別に、最近、さらに女性客が増えてきていた。
彼女達のお目当ては…
「はい、ケーキセット、コーヒーで2つですね」
ふんわりとした笑顔でオーダーを取る、もう一人のウエイター、愁であった。
恭也程ではないけれど、それなりに整った容姿に浮かべるのは、単なる営業スマイルではない、優しくてあたたかい笑顔。
「こちらのココアは、お子様に。少しぬるめにしてもらってありますから」
細かい気配りが出来て。
「恭也、手の空いたときで良いから材料を倉庫から出してきてくれる?」
「あ、チーフ、それでしたらそろそろ厨房の在庫が切れる頃でしたので、届けておきました」
よく気がついて。
「そろそろ手が空いた人からお昼しちゃって〜」
「皆さん、お先にどうぞ。僕はこれを先に片付けちゃいますから」
ごく自然に人を思いやれる言動がとれる。
そんな彼を目当てに、少なからぬ数の女性客がやってくるのも、充分ありえないことではなかった。
ただ。
「最近、また女性客が増えたなぁ。やっぱり、恭也さんがお店に出てるからかな」
肝心の愁自身は、どこかの無口なウエイター並みに、女性の視線の行方にはひたすら鈍感なのであった。
お昼時のピークが過ぎた頃。
いつのまにか降り出した雨の為にか、先ほどまでの喧噪がうそのように静かになる。
そんな店内の様子を見て取った桃子から休憩に入るように言われて、厨房の仕込みを手伝っている恭也と、後少しだからと皿を洗っている愁をのぞいて、女性三人が先にランチタイムとなった。
「最近、また女性客が増えたような気がするんだけど、気のせいかな?」
サンドイッチを食べようとしていた美由希が、ふとその手を止めて二人に尋ねた。
「そうだね、恭也がフロアに出てる日は前からだったけど、愁が来てくれてから、さらに増えたかな」
ミルクティーのカップを持ち上げながら、フィアッセが肯定する。
「高町君目当ての女性客が多いのは前からだから、それって、風間さん目当ての女性客が増えたってことですよね」
くるくるとフォークにパスタを撒きつけながら、忍が言う。
「うん、そうなるのかな〜。そういえば、美由希は土日出るの久しぶりだから知らなかったんだよね。最近、愁がフロアに出る土日は、いつもこうだよ」
「そ、そうなんだ。ふ〜ん、風間さん目当てのお客さんが…」
どきんっ。
何故か、心臓が不規則な音を立てる。
それは、いつも愁の事を考えるときに感じるものとは違って、どちらかと言うと…
「美由希…大丈夫?疲れた?」
急に強張った表情になって黙り込んだ美由希を、気遣うように声をかけながら顔を覗き込むフィアッセ。
「へ?あ、ご、ごめん。何でもないよ、フィアッセ。ちょっと、ぼうっとしてただけ」
「そう…?」
心配顔の優しい姉に、まだ少し固い笑みを向ける美由希。
そんな美由希をにやりと笑いながら見た忍が、さらりと爆弾発言。
「なんか美由希ちゃんさ、最近、風間さんの名前が出るたびに変じゃない?」
「し、忍さん!?そ、そ、そ、そんなことないですよ」
むきになって、わやわやと意味なく手を振り否定する美由希と、にやにや笑う忍を交互に見比べフィアッセが。
「美由希、愁に恋しちゃった?」
冷やかすわけでもなく、ごく自然に微笑んでのたまってくれたりする。
「フィ、フィアッセまで!ち、違うってば!」
「う〜ん、むきになるのがあやしいなぁ」
ますます面白がる忍に、慌てて言い訳ともつかないセリフをひねり出す美由希。
「だ、だから、女性客が増えたなぁと言う話をしてただけで、別に他意はないですよ」
「タイはなくても、コイはある、ゆ〜てな」
「し、椎名さん、いつの間に」
じゃ〜ん。
そんな効果音が聞こえてきそうなタイミングで登場したのは。
にぎやか大好き、おしゃべり大好き。
お笑いと恋愛相談なら任しといての、只今愛しの耕介君とハッピー甘々一直線な、売れっ子シンガーSEENAこと、椎名ゆうひ嬢その人であった。
…って長すぎ。
「あたしも居るよ」
「アイリーンさん!」
「Hay!でさ、ゆうひ。タイとかコイとか、お魚の話と美由希の話がどうつながるわけ?」
「いややな〜、アイリーン。コイはコイでも、池の鯉と違て、恋愛の方の恋や」
「…また、ゆうひお得意の駄洒落、とかいうの?」
「そんなあきれた声出さんといて〜な、アイリーン」
「ま、いいや。それは、そうと…久しぶりのオフに雨に降られちゃうなんて、Unluckyだって思ってたけどさ。雨やどりついでに翠屋に来てみたら、こんな面白い話を聞けるなんて、Lucky〜!」
「そやな。で、フィアッセ、噂の美由希ちゃんの彼氏はどこなん?」
完璧に面白がっている二人。
口をはさむ隙がなく、唖然と聞いていた美由希だが。
「だ、誰が誰の彼氏なんですか?!」
むきになって、反論する。
「まあまあ、そんな照れんでもええやん」
「照れてる美由希も、なかなかCuteだね、ゆうひ」
「うんうん、かわええよ、美由希ちゃん」
「照れてなんかいません!」
完全に遊ばれてる美由希を、ちょっと苦笑して眺めると、フィアッセはゆうひたちをそっとたしなめる。
「もう、その位にしてあげたら、アイリーン、ゆうひ」
かわいそうなほど赤くなっている美由希を見て、ちょっとからかいすぎたかと反省する2人組。
「Sorry、美由希」
「ごめんなぁ。ちょお、からかい過ぎたなぁ」
暫くうつむいていた美由希だが、顔を上げて。
「もう良いですよ、そんな謝らなくっても。変にむきになった私も悪いんですし」
まだ赤味の残る笑顔でそう答える。
その笑顔をきっかけに、和気あいあいとおしゃべりを始めた美由希たちのところへ、
「お知り合いの方ですか?なんだか、楽しそうですね」
にこにこしながら、愁がやってくる。
「おお〜、これが噂の」
「へ〜、なかなか」
顔を見合わせ、肯きあうゆうひとアイリーン。
「??あの、何か?」
「え〜の、え〜の、気にせんといて。乙女の秘密や」
「そうそう。あ、オーダーお願いできるかな」
「オーダーなら、私が」
片づけが終わって、お昼をとろうとしていたのであろう、愁の手にはサンドイッチとアイスコーヒーの載ったトレイがあった。
それを見て、美由希が立ち上がりかけると。
「美由希さん、まだお昼途中じゃないですか。ゆっくり休憩してて下さいよ」
にっこり笑って、それを制する愁。
「でも」
なおも言い募る美由希に、再度あたたかな笑顔で言葉を重ねる。
「僕のは冷める物じゃないですから、少々お昼が遅くなっても大丈夫ですよ。それに、何よりお客様の方が大切ですから」
きっぱりと言い切る。
「…これは、なんというか」
「そやな、美由希ちゃんが恋するのも、わかる気するわ」
ひそひそ囁く、アイリーンとゆうひ。
「まあまあ、風間さんも美由希ちゃんもとりあえず座れば。オーダーは、私が取るからさ」
いつのまにか食べ終わった忍が、愁と美由希に向かってそう声をかける。
「さっき、からかっちゃったお詫びだよ。風間さんとゆっくりお昼してなよ」
ウインクしながら、小声で美由希にそう耳うちする忍。
「し、忍さん!」
「私もお昼終わったから、お仕事に戻るね。お客様、こちらのお席にどうぞ」
さりげなく自分も席をはずしながら、ゆうひとアイリーンを二人を別の席へと案内するフィアッセ。
「フィ、フィアッセっ」
「それじゃ、ま、行きますか」
「ほな、ごゆっくり〜」
クスクスと笑いながら、フィアッセの後を着いて行くアイリーンとゆうひ。
いつのまにか、テーブルには、美由希と愁だけが残される。
「あ、あの…」
何を言おうか、言うべきかと口篭もる美由希に向かって。
「お昼…よかったら一緒に食べませんか?」
ゆっくりと微笑む愁。
「は、はい」
戸惑いながら、それでも笑顔で返事をかえす美由希の中で。
とくん。
また、心臓が不自然なリズムを刻む。
でもそれは、決して不快なものではなくて…
どこか、あたたかくて。
そして…とても心地良くて。
一緒に昼食を取り始めた愁と美由希の様子を、カウンターからそっと、しかし思いっきり嬉しそうな笑顔で眺めた桃子は。
「何だかいい雰囲気〜。あ、桃子さん、いいこと考えちゃったっ!風間君、就職まだ決まってないって言ってたし、このまま翠屋のウエイターに就職してもらって、ゆくゆくは美由希と…ふふふ、これで、美由希も翠屋の将来も安心ね〜」
等と、当の本人達をおいてきぼりにした、高町家長女の将来及び翠屋繁栄計画を脳裏に描いていたりした。
そんな桃子のはしゃぐ姿をよそに。
「……で、俺はどこで昼食をとったらいいんだ?」
何だか良い雰囲気になったフロアの二人を見てしまって。
厨房から出るに出られず、ほんの少し途方にくれつつ、憮然とする恭也の姿があったのだった。
<後書き…?>
性懲りもなく、愁と美由希のお話を書いてしまいました。
きっかけは、ある方からの「美由希と愁が想いを募らせて告白するまでの間の話を、もう少し」という、実に的確な指摘(爆)からでした。
…確かに、途中すっ飛ばしすぎでしたよね。
いくら思いつかなかったからって(爆×2)
と、言うわけで、天啓のようにゆうひが登場するシーンと
>「タイはなくても、コイはある、ゆ〜てな」
からアイリーンとの掛け合いのセリフが浮かび、何とか最後までこぎつけることが出来ました。
…ラストが、お笑いなのは、まぁいつも通りということで。
こんなSSですが、少しでも楽しんでいただければ幸いです。
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