雨やどり


匿名希望さん 作



 それは、まだ。
 私が、神様を信じなかった頃のこと。

 その日は多分、風間愁、20年間の人生において最悪の日だった。
 一人暮らしをしているアパートの階段を踏み外し、したたか腰をうった事から始まって。
 学費の一部を稼ぐ為にどうしても必要なのに、数年来のアルバイト先を不景気を理由にあっさりクビになり。
 残り数枚となった貴重な紙幣の入った財布を、大学に行く途中で落とし。
 気力を振り絞っていった大学では、レポートの提出期限を間違えて不可、とのお知らせを貰い。
 密かにいいなと思っていた女友達が、自分のことをいい人すぎて男性と意識できないと笑って話していたのを聞いてしまい。
 とぼとぼと帰宅する途中での、このいきなりの雨。
「トドメさされた気分だ…」
 口に出してみると、余計に落ち込みが酷くなる。
 愁は、駆け込んだ店先の下、呆然と降り出した雨を見つめていた。

 出逢いは、偶然。
 ほんの少しの、神様のいたずら。

 突然の雨のせいだろうか。
 客足の途絶えた今日の翠屋は、静かな雰囲気を店内に漂わせている。
 ふと、窓の外に目をやった美由希は向かい側のお店の軒先に、立ち尽くす人影を見つけた。
「ねえ、母さん、あの人さっきからずっとあそこにいるけど、大丈夫かな」
「え〜、どこどこ?」
 カウンターから出てきた桃子が、窓の外に目をやるより早く、その人影の前を一台の車がスピードも落とさずに横切ると、人影はあっという間もなく、盛大な水しぶきを浴びる。
「大〜変、美由希、タオル持ってって、あら?」
 見た目に漂うのんびりさとは裏腹の素早さで、すでにタオルを持って駆け出していった美由希の後姿を、ちょっと呆然として見送る桃子であった。
 暫しのやり取りの後、遠慮がちにタオルを頭にかけて、美由希の後に続いて入ってきた人物は、年の頃は、多分、恭也と同じぐらいか少し上のぐらいの、けれど恭也とはまるで正反対のどことなくふんわりとした雰囲気の青年だった。
 幸いにも、ずぶ濡れは免れたらしいが、それでも結構、ズボンや上着が濡れている。
「災難でしたね、もう一枚タオルをどうぞ」
「すみません」
 そう言って、いかにも申し訳なさそうに、頭を下げる青年に、桃子は近頃の青年には珍しい礼儀正しさを感じる。
 もともと困っている人を見捨てて置けない性格の桃子が、誠実そうな青年が、どことなくしょぼんと元気なさそうにしているのを、見過ごす訳もなく。
 温かい紅茶を入れ、それを勧めながら雨がやむのを待つ間に、フルネームは言うに及ばず、今日一日、彼をおそった一連の不幸な出来事のあらましをすっかり聞き出してしまい、あまつさえ。
「じゃあ、うちでバイトしなさいな」
 などと、あっさり言ってのけたのだった。
「かーさん…」
「え、何?美由希は反対なの?」
「そういうわけじゃないけど、風間さん、困ってるよ」
 展開の早さについていけず、目を白黒させている愁を見やって、美由希が言う。
「あの〜風間さん、どうします?母はああ言ってますけど」
「あの、良いんですか?」
「え?ええ、私は、別に」
「じゃ、決まりね」
 あっという間に、愁のバイトが決定する。
「とりあえず、今日は風邪をひかないように温かくしてお休みなさいね」
「はい、ありがとうございます。店長、美由希さん、明日からよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 にっこりと笑う桃子と美由希。
 捨てる神あれば、拾う神あり。
 アルバイト先を失ったその日に、次のアルバイト先を得るという突然の幸運に戸惑いを覚える愁の胸中にもう一つ、ある感情が芽生え始めていた。
 『美由希…さんっていうんだ…親切で、優しくて、かわいらしい人だなぁ…』

 再会は、必然。
 ほんの少しの、神様のたくらみ。

「困ったなぁ…」
 久しぶりに訪れた市立の図書館で、つい読みたい本を後先考えずに、大量に借りてしまった美由希は途方にくれていた。
「傘、持ってくれば良かったな」
 突然の雨に、両手には大量の書籍。
 手ぶらならこのぐらいの雨なら少々濡れても平気だけれど、大切な本が濡れたら困る。
 梅雨の晴れ間に、ちょっと新刊を探してみようと思って、傘を持たずにきたのが失敗だった。
『思慮が足りん』
 師であり、兄である恭也の説教が聞こえる気がして。
 何度目かのため息をつきながら、止まない雨を見つめていた時。
「あれ、美由希…さん?」
 声をかけられて、空から視線を戻すと、そこに愁がいた。
 翠屋でのシフトが微妙にずれていた為、すれ違うことはあってもきちんと顔を合わせて話をするのは、実は最初に出会ったとき以来だった。
「どうしたんです、こんなところで」
 穏やかな笑顔を向ける愁に、事の次第を告げる美由希。
「あ、じゃあ、もしよかったら傘、入っていきますか?」
「え、でも、図書館に用があったんじゃないんですか?」
「レポートの資料に借りていた本を返しに来ただけですから。それに、この後翠屋のバイトの時間ですし」
「えっと、あの、でも」
 傘に入る、ということはつまり、相合傘と言う訳で。
 身近な男性といえば、恭也しかおらず、その恭也とは相合傘どころか、雨の中での模擬戦をする始末。
 早い話が、そんな思わず頬を染めるような、ごく普通の女子高生が体験する嬉し恥ずかしな状況は、これまでの人生で皆無だったり。
 …ちょっとだけ、切なくなる。
「あ、あの、美由希さん…?」
 なんだか頬を染めたかと思うと、いきなり落ち込んだ表情を浮べて固まっている美由希に、遠慮がちに声をかける愁。
「は、はい。えと、あの」
「ご迷惑でしたか?」
「いえ!って、その、送っていただけるのは、凄く助かるんです、けど…あの…」
 要するに、気恥ずかしかったりするのだ。
 けれど、愁はそんな美由希の微妙な乙女心に気付くこともなく。
「じゃあ、お送りしますね。ちょっと待っててもらえますか。これ、返してきちゃいますから」
 爽やかな微笑みを残して、図書館のドアを押し、館内へと去っていった。
 程なくもどってきた愁と共に、翠屋へ向かう美由希。
 翠屋まで行けば、かーさんやフィアッセがいるから傘を貸してもらおう。
 忙しそうならCLOSEまで店を手伝ってから、かーさん達と一緒に帰ってもいいし。
 …それにしても、何と言うか、気恥ずかしい。
 雨の降り出した街は、人影もなくて何だか自分達二人きりの世界にいるようで…と、ここまで考えて自分の思考に赤面する。
 二人きり。
 急に、それが意識されてしまい、何となく自分より高い位置にある彼の横顔を見てしまう。
 顔…はわりと整っている方だと思う。
 恭ちゃんのような硬いイメージじゃなくて…何と言うか、やわらかい。
 もちろん、軟派なという意味じゃなくて、ふわりとしたやわらかさ、言い換えればあたたかな雰囲気を持っている、とでもいうのかな。
 真面目で、仕事熱心で、親切…でもあるよね。
 実際、かーさんなんて風間さんが来てからとても助かるって、手ばなしで誉めていたし。
 それに…
「?美由希さん、僕の顔、何かついてます?」
「い、いえ、別にあの、そういう訳ではなくて。あ、あははは」
「っ!あぶない!」 
「え?」
 点滅する信号。
 目の前を、猛スピードで車が駆け抜けていく。
 ぼんやりとして少し前に出てしまっていた美由希を、ぐいっと引き戻して、くるりと車道に背を向ける愁。
 その背中めがけて、盛大な水しぶきがかかる。
 はっと我に返る美由希。
「あの、ありがとうございます」
「怪我、ないですか?」
「はい。風間さんのほうこそ、大丈夫ですか?」
「ええ、それは大丈夫です。でも、背中がちょっと。また、タオル借りられますか?」
 美由希をかばって、大量の水をかぶった愁が、なんでもないように笑って言う。
 その笑顔に。
 何かが、美由紀の中に生まれ始めた。
 とくん。
 そんな音を立てて。

 重ねる月日が、心も重ねて。
 いつしか、近付く互いの想い。

「美由希、愁とデートだって〜?」
「や、やだなフィアッセ、そんなんじゃないよ。ちょっと、本を探しに行くの、手伝ってもらうだけなんだから」
「とかなんとか言っちゃって、みょ〜に、気合入った服着てない?」
「もう、かーさんまで!」
「ふふふ、楽しんでらっしゃいね」
「そうそう、今日の美由希は凄く素敵だから、愁も惚れなおすよ〜」
「そ、そんな」
 美由希、テレまくり。
「あんたもそう思うでしょう、恭也?」
「ふむ…」
 うっすらと化粧した美由希を一瞥した恭也は、そのおでこに手を当てて。
「熱は…ないな?」
 と、至極真面目な顔をしてのたまったのだった。
「恭ちゃんのばかー!もういいよ、行ってきます!!」
「ああ、言い忘れたが雨が降りそうだから、傘を忘れるなよ」
 怒って出て行く背中に、声をかける恭也。
 その様子を見て。
「いくら照れくさいからって」
「あれはないよね〜」
 訳知り顔の年長者二人組にはさまれて、やっぱり憮然としている恭也であった。

 想いは、やがて恋になり。

 いつかのように、雨が降り出しきて、客足の途絶えた翠屋。
 何故だか緊張して見詰め合うウエイターとウエイトレスの姿があった。
「み、美由希さん、僕と付き合ってください」
「は、はい!」
 テーブルの下にこっそり隠れ、固唾を飲んで見守っていたギャラリーの晶とレンは。
「って、あれでまだ付き合ってなかったつもりだったのか」
「なんてゆ〜か、あんなにラブラブしとってなんや今さらって気もするんやけど」
 ちょっとだけ、呆れていたりした。

 木の葉が色づくように、愛へと変わっていく。

 一人暮らしで、家庭の味に飢えている愁を夕食に招く、というアイデアはよかった。
 料理をするのが、美由希でなければ。
「はっ!!」
 裂帛の気合とともに、舞う白刃。
 高く放り上げられた野菜と肉塊が、たちまち一口サイズに切り分けられる。
「ふっ!!」
 瞬時に投げられた飛針、ではなく鉄串がその野菜と肉を数個ずつ、寸分の狂いもなく捕らえる。
 そして。
 そのままキッチンの壁に突き刺さる。
「ああっ?!」
「未熟者」
 冷たい視線と口調で恭也がつっこむ。
「あの、師匠。つっこむところってそこですか?」
 ちょっぴり額に汗する晶。
 その後ろで美由希が
「くっ、とれないっ」
 壁に刺さった串と、格闘していた。
 数分後、何とか抜けたそれを手にする美由希を、ちらりと一瞥し。
「で、それをどうする気だ?」
「いやだな〜、恭ちゃん。バーベキューだもの、焼くに決まっているよ」
「どこで?」
「どこでって、外だけど」
「ほ〜う」
 どこまでも冷たい恭也の視線の先を追えば。
 12月の高町家の庭は、しっかりきっぱり大雨だった。
 ご丁寧に、今にも雪に変わりそうなほどの寒さだったりもする。
「えっと。あは、あははは…」
「愚か者」
「うっ。否定できない」
 一風変わった調理風景を、呆然と見ていた愁だが、落ち込む美由希を見て再起動。
「あ、あの、美由希さん!」
「え?」
「だ、大丈夫ですよ。ほら、野菜なら生でも食べられますし。ちょっと変わった盛り付けのサラダだと思えば」
「愁さん…」
 かなり強引な発想の転換だったが、その優しさに美由希、大感激。
 思わず潤んだ目で、愁を見つめたりなんかしたりして。
 で、その様子を見守る桃子とフィアッセが。
「愛よね〜、フィアッセ!」
「そう、あれは愛だね、桃子!」
 と、感激の面持ちで頷きあっていたりする。
 おまけに、何だかよくわからないままに、なのはまでも。
「おねーちゃんと風間さんの愛ってすごいんですね〜」
 感激したりしてた。
「なんや激しく間違っているよ〜な気がするんは、うちだけやろか?」
「安心しろ、カメ。俺もそんな気がする」

 ちょっとだけ。
 愛の方向性が、世間一般より違っているようだったが。

 そして、また…季節は巡っていく。

 雨が降っている街角。
 書店の店先で、人待ち顔の青年がいる。
 その青年の元へ、そっと走り寄る少女。
「おまたせしました」
「いえ、じゃあ行きましょうか」
「はい」
「それにしても…」
 くすり。
 思い出し笑いをする愁。
「どうしたんです?」
「いえ、何か大切なことがある時は、決まって雨が降っているなって」
「そう言えば、そうですね」
 愁を見て、微笑みを返す美由希。
「で、あの…」
 どこか緊張した雰囲気の愁は、手にしていた傘の柄をぐっと握り締めて。
「…?」
「今日も、その、雨が降っていて」
「え、ええ」
 何だか、愁の緊張が移ったように、我知らず美由希も緊張してしまい。
「あの…その…」
「は、はい」
「結婚してください」
「え、ええっ!」
 突然のプロポーズ。
 思わず見つめた愁の顔は、決して冗談を言っているようにも見えず。
「だ、ダメ、ですか?」
「い、いえ、そうじゃなくて。その、びっくりしたというか、えっと、でも、嬉しいというか」
「じゃ、じゃあ!結婚してくれますね!」
 にっこりと。
 はにかんだ笑顔を浮べて。
「はい」
 ゆっくりと頷く美由希。

 偶然の出会い
 いくつもの想いを重ねて
 気がついたら
 あなたの腕の中
 
 …雨やどりをしている


 <後書き…?>

 とってもとっても難産だった、美由希と愁の出会い編「雨やどり」をお送りいたしました。
 途中何度も何度も止まりまして、一時は、破棄しようかとも思いましたが、何とか、こうしてまとめることが…できてますよね(不安)

 タイトルは、いつもどおりさだまさし氏の同名タイトルの歌からで、内容も少し意識して書いてみたのですが…
 ああ、やっぱり、美由希は難しい!
 おまけに、オリキャラなんて無謀なことをしてしまって。

 …山ほどつっこむところはあると思いますが、どうか、見ないフリをしていただけるとありがたいです(涙)

 こんなSSですが、少しでも楽しんでいただければ、幸いです。


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