天田ひでおさん 作

     はじめに

 このSSは匿名希望様のSS「アップル・パイとシナモン・ティー」を元に書かれた物となっております。
 まずはそちらを先に御読み頂いてから読んで頂く事を推奨致します。
 また、このSSは匿名希望様から(掲載等)ご許可を頂いております。



     アップル・パイとシナモン・ティー(フィリス編)



 とある街の喫茶店。美味しい紅茶とケーキが評判のそのお店。
 中でも特に評判のメニュー。
 それは恋する人達の特別なメニュー。



 海鳴商店街にある一軒の喫茶店「翠屋」。
 若者(特に女性)に人気のこのお店は、平日は学校帰りの学生達で賑わい、休日ともなればランチタイムはさながら戦争状態だった。
 そんなランチタイムを過ぎ、少し客足が落ち着いた辺りの時間帯に、一人の女性が店の前に立つ。
 長く伸びたストレートの髪は輝く銀色。高校生――いや、もしかしたら中学生とも間違われかねない少女の容姿。しかし彼女は高校生でも、まして中学生でもない。既に立派な一人のレディ、海鳴大学病院に勤務する女医――それがフィリス・矢沢であった。
「良かった、今なら空いてそうね」
 翠屋を前にしてフィリスは呟いた。
 久方ぶりの休日をショピングで過ごした彼女は、遅めの昼食を取るためここに来ていた。せっかくの休日。どうせなら姉のリスティ・槇原も誘いたかったのだが、仕事あるという事で今は彼女一人だった。
(でも本当に良いのは、恋人と一緒に過ごす事なんでしょうけどね)
 胸中で呟き、苦笑する。
 残念ながらフィリスには恋人と呼べる人間がいなかった。それは別に彼女に問題があるのではなく、むしろ彼女はその可愛らしい容姿、しかし大人の優しい性格から、同僚の医師達にも人気があり声を掛けられる事が多かった。だが彼女がそういった誘いを今まで断っているのは、色々と理由があるのだが、まず第一に既に密かに想っている人がいるからである。
 その人とはフィリスの友人であるフィアッセ・クリステラから紹介されて知り合った。まだ風芽丘学園に通う現役の学生で、しかし今時の若者とは違う落ち着いた大人の雰囲気を持つ。今は亡き父親に幼い頃から剣術を教わって、その為よく怪我をする彼女の困った患者の一人でもある。
 名は高町恭也。ここ翠屋の店長、高町桃子を母に持ち、時折店を手伝っている。
 フィリスが昼食を翠屋で取ろうと思ったのは、単純に彼に逢えるかもという期待があったからかもしれない。
 フィリスはドアに手を掛けてゆっくりと開け、店内へと入った。カウベルのカランコロンという音が彼女の来店を告げた。

「いらっしゃいませー……あっ、フィリス先生」
 入って直ぐ、桃子の娘、高町美由希が迎えた。
「こんにちは、美由希さん」
 高町家の人達とは既に顔見知りであるフィリスは、美由希に軽く挨拶をする。美由希も「こんにちは」と挨拶をしてから、ウェイトレスとしての対応を取る。
「お席の方はカウンターとテーブル、どちらになさいますか?」
「あっ、えっと…………」
 訊かれてフィリスは店内を見回した。今はランチタイムを過ぎている為か、お客さんは自分以外にテーブル席にまばらにいるだけ、カウンター席には至っては誰もいなかった。ついでとばかりに恭也の姿も探してみるが、厨房にいるのか今日は休みなのか、その姿は見られなかった。少しその事に残念に思いつつ、どちらの方が落ち着けるかフィリスが逡巡していると……
「先生、フィリス先生ー」
 カウンターの方から自分を呼ぶ声が聞こえ、フィリスはそちらへ顔を向けた。見ると桃子がカウンターの向こうから手招きをしている。
「それじゃあカウンターで」
「はい」
 フィリスと美由希は顔を見合わせ、小さく苦笑した。 

 フィリスが席に着くと、桃子はすかさずカウンターから身を乗り出してきた。
「先生、先生」
 何故か小声で呼びかける桃子にフィリスは「はい?」と顔を向けた。
 もしかしたら恭也の怪我の事で何か言いたい事、訊きたい事があったのだろうかとも一瞬考えたが、どうも彼女の顔見ると違うようだ。何かを話したくてうずうずしているように見える。フィリスより年上だというのに、その姿はまるで思春期の少女だ。
「実は今新メニューを考えたところ何ですけど……先生ちょっと協力してもらえません?」
「新メニューですか?」
 意外と言えば意外のお願いに、フィリスは思わず訊き返した。普通店の新メニューなどはその店の従業員に意見を訊くものだ。確かに中には親しい人達に意見を訊く人もいるだろうが……まさかそれを自分が頼まれる事になるなど、彼女は思ってもいなかった。
「私でいいんですか?」
「ええ、是非フィリス先生に試してもらいたいんです」
 フィリスは数瞬迷いを見せるが、別段断る理由も無いかったので「分かりました」と直ぐに返した。その答えに桃子は嬉しそうにぽんと手を叩いて、
「それじゃあ席を替えましょうか」
「え?」
 きょとんとするフィリスを余所に何故か楽しげに言った。



 ――何でここじゃないといけないんだろう。
 桃子に促されテーブル席――店の一番奥にあるあまり目立たない場所――にフィリスは座っていた。
 ただ新メニューを試食するだけなら別にカウンター席でも構わないだろうに……。そう思ってフィリスも一応訊いてはみたのだが、桃子は「このメニューはテーブル席じゃないと出せないんですよー」と、説明らしい説明はしてくれなかった。
 そういった訳で彼女は今、期待やら楽しみ、もしかしたら少しは不安もあるかもしれないが、そういった感情をない交ぜにして、桃子がその新メニューを持ってくるのを待っている。
 そわそわしてるのも何だか子供っぽいので、(彼女自身その容姿から結構気にしている)何となく視線を窓の外へと向ける。休日という事もあってか、多くの人々が通りを行き交っていた。その中にはやはり若いカップルの姿もあり、その仲睦まじい様子を見ているとついフィリスも「いいなぁ」と呟きを洩らしてしまう。
「何がいいんですか?」
「――え? わっ!」
 振り返れば、いつの間にか桃子がお盆を持ってテーブルの脇に立っていた。お盆の上には新メニューらしきもの。フィリスが思わず洩らした呟きはしっかり聞いていたとの証明に、にやにやと口許に笑みを浮かべている。
「あっ、いえ、その、な、何でも無いです」
 今更もう遅いのだが、フィリスは顔をほんのり赤くして慌てて言い繕った。「そうですかー」明らかに何でも無い、ばればれであるその反応を桃子はあえて追及せず、お盆の上の新メニューをフィリスの前に置いていく。
「お待たせしました、アップルパイとシナモンティのセットでございます」
「ありがとうございます」
 礼を言ってフィリスは目の前に置かれたそれらに目を向け、胸中で首を傾げた。
 ――言っては失礼だが、取り立てて珍しいというものではなく、ごくごく普通のアップルアイとシナモンティである。もしかしたら味に秘密があるのかも、と思ったところで、彼女はティカップのソーサー(受け皿)の上に置かれたものに気がついた。ソーサーの上には小さなスプーン、その横には薔薇の形をした角砂糖が二つと、そして……人差し指サイズ位の何か枝の様なものが置かれている。何だろう。フィリスはじっと目を凝らして見つめる。
「それはシナモンの枝ですよ」
 フィリスが振り返って訊ねるよりも早く桃子が答えた。「シナモンのですか?」これをどうするのか? 小首を傾げるフィリスに桃子は小さく笑って答える。
「先生、このメニューは特別なメニューなんですよ」
「特別……ですか?」
 反芻して、しかしやはり判らないといった顔をする。その表情を読み取って、桃子は実に楽しそうに話し始めた。
「はい、実はですね――」

 ――それはとある町の、小さな喫茶店のお話。
 取り立てて目立つわけではないが、静かな雰囲気とおいしいコーヒーが人気のお店。
 その店の隠れた人気メニュー、パンプキンパイとシナモンティ、薔薇の形の角砂糖二つ。
 シナモンの枝で、その店の窓ガラスに愛しい人の名前を3回書けば、たちまち恋が実るという。

「――とまあそんな話がありましてね。まあそのまま使うってのもあれなんで、うちではパンプキンパイではなくアップルパイで試そうと思いまして」
 話を聞く内にフィリスの顔が赤く染まっていく。俯き、おずおずと伺う様にして上目づかいで桃子を見上げる。
「あのー、それはその……つまり私が試すというのは……その…………」
 段々と声を小さくしていきながら訊ねるフィリス。桃子はそんな彼女の肩をぽんと軽く叩いて、
「それじゃあ先生、ごゆっくり〜」
 そうそうにその場を去っていってしまった。
 暫し茫然と桃子の後ろ姿を見送った後、フィリスはテーブルに顔を向けた。シナモンティが温かい湯気とシナモン独特の清涼な香りを漂わせる。紅茶には人の心を落ち着かせる効果があるが、どうも今の彼女にはそれは通じないらしくやたら胸の鼓動を大きくしていた。
 たかだかおまじないである。それも年頃の少女が喜びそうな――どこにでありそうな恋のおまじないだ。
 そう自分に言い聞かせるのだが、妙に緊張している自分がいる。浅く深呼吸を数回繰り返し、シナモンの枝をじっと見つめ、それを手に取る。
(ま、まあ別に試すだけなら……)
 胸中で呟き窓に体を向ける。シナモンの枝を持つ右手が緊張に震えていた。恐る恐る窓硝子にシナモンの枝先をくっつける。
 ――高町恭也。
 幾度かの検診で既に書き慣れたその人の名をゆっくりと書き――
「いらっしゃいませ、フィリス先生」
「わひゃあ!」
 突然掛けられた声に驚き、フィリスはみっともない声を出して肩を跳ね上げた。慌ててシナモンの枝を後ろ手に隠し、ばっと振り返る。テーブルの脇に立つ青年を眼に留めて、更に驚きの声を上げた。
「き、ききき恭也君?!」
「すみません。驚かせてしまいましたか?」
 フィリスはぶんぶんと音が聞こえてきそうな程首を横に振った。
「いえ! 全然、その、大丈夫、です!」
 顔を真っ赤に力一杯答えるその様子からして既に大丈夫とは思えないのだが、恭也は「はあ」と曖昧に頷く。
 ――良かった、気付かれてないようだ。
 恭也が果たしてあの「おまじない」を知っているかどうか判らないが、とりあえずは一安心である。フィリスはほっと息をついて改めて恭也を見つめた。
 そして一度安心すると今度は彼と出会えた事に喜びに胸が躍る。フィリスは努めて平静な口調で話し掛けた。
「恭也君いらしてたんですね。さっきは見かけなかったからてっきり居ないものかと思ってました」
「さっきまで厨房を手伝ってましたので……あっ、これはいつも来て頂いてる御礼です」
 そう言って恭也はクッキーの載った皿をテーブルに置いた。
「あっ、ありがとうございます」
 クッキーを貰った事が嬉しいのか、それとも恭也の手からそれを貰った事が嬉しいのか、その両方かもしれないが、フィリスは嬉しそうに微笑んだ。
「いえ。先生、今日はココアじゃないんですね」
「え? あ、ええ。たまには気分を変えてみようと思いまして」
 流石に理由は話せないので、フィリスは「あはは」と笑って誤魔化した。恭也も特にそれ以上追求する事無く「そうですか」と微笑んだ。
「では、ごゆっくり」
 そう言い残して、恭也は踵を返した。
(行っちゃった……)
 残念そうに嘆息して、はっと自分が彼が居なくなって寂しがっているという事に気付き、フィリスは恥ずかしさに顔を赤くした。
(わ、私ってば……)
 頬に手を当てるとやけに熱かった。恥ずかしさを紛らわす為にクッキーに手を伸ばし、一枚口に放り込む。何度か咀嚼すると、ミルクの甘さとほど良い香ばしさが口いっぱいに広がった。
 クッキーの味に平静を取り戻し、しかしまだ高い心音はそのままに、フィリスは再び窓硝子に向き直る。その右手にはシナモンの枝。
 先程よりも多少落ち着いたが、それでもまだ緊張に震える右手――シナモンの枝を窓硝子に添える。
 ――今度こそ。

 “高”
 “町”
 “恭”
 “也”
 ――一回。
 “高”
 “町”
 “恭”
 “也”
 ――二回。
 “高”
 ――胸の高鳴りが激しくなる。
 “町”
 ――間違いの無いように慎重に。
 “恭”
 ――あと一文字。

 ――コンコン。
 その時、突然窓硝子が微力な振動を伝えた。フィリスの手が止まり、気が付けば影が差し込んでいる。
 えっ、とフィリスが顔を上げると……窓の向こう、自分目の前に一人の人物が立っていた。
 一瞬、鏡ではないかと疑ってしまう似た容姿。しかし窓の外の彼女は肩までの髪の長さで、咥え煙草をしている。
「リ……スティ……?」
 自分でも信じられないといった顔で、フィリスはその人物の名を口にした。それに応えるかの如く、リスティも軽く右手を上げ、彼女独特の悪戯っぽいにやにやとした笑みを浮かべる。
 言葉にすれば恐らく『ハァイ、フィリス。こんな所で会うなんて偶然だね』とでも言っているのだろう。
 リスティは茫然と自分を見上げているフィリスにそこで待つよう手振りで伝えると、その場を離れていった。
 少しして――
「いらっしゃいませー」
 来店を告げるカウベルの音がフィリスの耳に届いた。



「リスティ、仕事じゃなかったの?」
 リスティが自分の向かいに座るなり、フィリスは当然の疑問を口にした。リスティは注文を取りに来た店員に珈琲を頼むと、フィリスに向き直って手をひらひらとさせた。
「仕事だよ。――けど休みも必要だろ?」
 お昼もまだなんだよ、僕は。と、不満そうに呟く。どうやら本当に忙しかったようだ。
 しかし今のフィリスにはその事に対して同情する気も起きない。むしろもう少し仕事をしていて欲しかったと、思ってしまう。
(あと一文字だったのに……)
 胸中で悔しそうに呟く。
 たかがおまじない。そう思っていたはずなのに、いつの間にか実行出来無い事に不満を抱いていた。
 ほんの僅かに恨みがましい視線でリスティを見遣ると、彼女は丁度煙草に火を点けようとしていたところだった。
「ああ……ところでフィリス――」
 煙草に火を点けて一息吸い込んだ後、リスティは思い出したかの様に言った。
「さっき何してたんだい?」
 ――!
 フィリスの心臓が一瞬大きく跳ね上がる。
「べべべべつに何でもありません!」
「ふーん……」
 眼を細め、リスティは口許ににやにやと笑みを浮かべる。
 まさか、彼女はあの『おまじない』を知っているのだろうか?
 ――いや、そんな訳が無い。なにせこれは出来たばかりの新メニュー。自分が最初に試すものなのだ。
 頭の中に浮かんできた不安を何とか打ち消し、フィリスは普段の表情を繕う。
「それよりリスティ、珈琲だけじゃなくて何か他に頼めば――」
「怪しい」
 突然リスティはずいとテーブルに身を乗り出してフィリスに迫った。
「今何か誤魔化そうとしたね?」
「なっ、ご、誤魔化すって……何を?」
「それを僕が知りたいんじゃないか」
 呆れた様に言いつつ、リスティはひょいとフィリスの前にあったアップルパイを手に取った。それを、フォークも使わずに手掴みで食べ始める。
 それがあまりに何気ない仕草だったので、フィリスは気が付くのに数瞬遅れた。
「り、リスティ!」
「はぁふぃ?」
 思わず立ち上がって叫ぶが時既に遅く、リスティは既に半分以上食べてしまった後だった。
 リスティは上目遣いにフィリスを見上げながら、彼女が怒っているのも気にする事無く、アップルパイの残りを口の中に入れた。
「あーっ!」
 悲痛な声。先程の叫びも併せて、周りのお客や店員が二人の方に何事かと顔を向ける。「あ……」フィリスは顔を真っ赤にし、すみませんと頭を下げて直ぐに腰を下ろす。
「何やってるんだよフィリス。恥ずかしいなあ」
「なっ、誰のせいですか!」
 今度はちゃんと声を潜め、しかし強い口調で言う。と、そこへ横から別の声が入って来た。
「どうかされましたか?」
 フィリスとリスティは同時に振り向いて、
「き、恭也君……」
「おっ、丁度良いところに」
 その声の主を眼に留め、フィリスは恥ずかしそうに俯き、リスティはにやりと笑った。
「聞いてくれよ恭也。フィリスのやつってばケーキ一つで青筋立てちゃってさ――」
「わ、私はそうやって人の物を勝手に取った事に怒ってるの! それにケーキじゃなくてアップルパイです!」
「――細かいやつだな」
 やれやれと肩を竦めるリスティ。
 そんな二人のやり取りを恭也は苦笑の混じった困り顔をして見ながら、リスティが頼んだ珈琲を彼女の前に置く。
「つまり……リスティさんが悪いのではないですか?」
「おいおい、恭也まで僕を悪人にするのかい?」
 リスティは置かれた珈琲に早速手を伸ばし、一口飲んで小さく吐息する。
「あーあ、恭也は仕事仲間より恋人を選ぶのか。まったく、友情なんて儚いものだね」
「リスティ!」
 恭也が口を開くよりも早くフィリスが声を上げた。怒っているせいなのかそれとも別の理由からか、頬がほんのりと赤い。
「貴方はどうしてそう誤解されるような事を言うの?! 私と恭也君は別にそういう関係じゃありません! 大体恭也に迷惑でしょ!」
 捲くし立てるような彼女の言葉をリスティは珈琲を飲みながら軽く聞き流し、恭也に顔を向けた。
「――と言ってるけど……迷惑なのかい、恭也? フィリスと恋人に間違われて」
「え?」恭也は一瞬驚いた顔をした後、少し逡巡して答えた。
「それは……どちらかと言えばフィリス先生の方がご迷惑なのではないですか? 俺なんかとそんな風に思われて……」
 ちらりとフィリスに視線を向けると、彼女の方も恭也に顔を向けていたらしく、そこで二人の視線が一瞬重なった。その途端、フィリスはばっと顔を俯かせた。
「あ、いえ、その……迷惑だなんて…………」
 俯きながらフィリスはごにょごにょと恥ずかしげに呟く。リスティはそんな妹の様子に一人満足すると、残りの珈琲を一気に煽って立ち上がった。
「さて、それじゃあ僕は行くかな。この後も仕事があるし……あっフィリス、支払い宜しく」
 リスティはそう言ってフィリスと恭也に手をひらひらと振ると、さっさとその場を後にした。
「ちょっ、リスティ! 勝手な事――――もうっ!」
 ぶすっと、頬を膨らませるフィリス。恭也はいけないと思いつつも、つい苦笑した。
「困った方ですね。……ああ、こちらお下げ致します」
 そう恭也が空になった珈琲カップとアップルパイの皿を手に取ると、フィリスは少しだけ寂しそうな、残念そうな顔を見せた。
「どうかしましたか?」
「え、あ、ううん、何でも無いの」
「…………そうですか」
 恭也は少し釈然としないながらも、会釈してその場を離れた。

 恭也の姿が見えなくなるの待ってから、フィリスは深々と溜息を吐き出し、肩をがっくりと落とした。
「厄日なのかしら……」
 テーブルの上に残ったシナモンティを眺めながらぽつりと洩らす。
 『おまじない』は失敗し、リスティにはからかわれ(その上アップルパイまで食べられ)、折角恭也に会えたというのにろくに話も出来無かった。
 落ち込み、お昼抜きだというのに食欲も湧いて来ない。もう一度溜息をついて、フィリスはシナモンティを一口飲み…………顔を顰めた。時間が経ち過ぎ冷め、香りも薄くなり、砂糖も入っていない紅茶は苦味しかフィリスに与えてくれなかった。
 殆ど中身の減っていないカップをソーサーに戻す。そしてシナモンの枝を摘み、それを手で弄びながら窓硝子に顔を向ける。そのまま暫くぼうとした後、
(やっぱりもう駄目だよね)
 別に誰がそう決めたわけでも無いが、やはりアップルパイとシナモンティの二つが揃ってこそなのだろう。フィリスはそう結論付けてシナモンの枝をソーサーの上に転がした。
(桃子さんには悪いけど……今日はもう帰ろう…………)
 そう思った矢先、頭の上から声が聞こえてきた。
「お待たせしました、アップルパイとシナモンティのセットです」
「え?」
 顔を上げると、いつの間にか恭也が戻って来ていた。ぽかんと見上げるフィリスの前で、彼はお盆の上の皿――アップルパイとシナモンティをテーブルに並べる。
「ご注文の品はこちらで宜しかったでしょうか?」
 訊かれ、フィリスこくこくと頷いた後で、はっと恭也に訊き返した。
「あ、あの、恭也君これは?」
 恭也は微笑んで答える。
「先生にはいつもお世話になっていますから、ささやかながら俺からのお礼です」
 言われてフィリスはテーブルに顔を向けた。出来たばかりアップルパイは焼いた林檎の甘い匂いを、温かいシナモンティはシナモンの爽やかな香りを漂わせている。シナモンティのカップのソーサーには、小さなスプーン。そして……薔薇の形の角砂糖が二つとシナモンの枝が添えられている。
 もう一度恭也を見上げ、それから少し迷う様にしてカウンターへ顔を向ける。桃子がカウンターから顔を覗かせ、小さく手を振って微笑んでいた。
 ……どうやら全部見られていたらしい。
(かなわないな)
 心中で呟き苦笑する。
「フィリス先生?」
「あ、いえ……ありがとうござます、恭也君」
 にっこりと、頬をほんのり朱に染めて笑う。その彼女の笑顔に釣られたのか、恭也も微笑んで、「ではごゆっくり」そう告げて踵を返した。
 彼の後ろ姿を見送った後で、フィリスはシナモンの枝を手に取り、嬉しそうに小さく笑った。

 お店の窓に、シナモンの枝で愛しい人の名前を3回書けば……その恋は実るという。

 ――なんだか今度はうまく出来そうな気がした。




 小さな足音を響かせながら、フィリスはリノリウムの廊下を歩いていた。
 海鳴大学病院――G病棟。彼女が勤める病院。
 と、フィリスは一つの病室の前でその足を止めた。そこは彼女が担当する患者の部屋である。プレートに書かれた名前を確かめ、軽くノックをして扉をゆっくりと開ける。
「百合ちゃん、お体の具合はいかがですか?」
「あっ、フィリスお姉ちゃん」
 そう返事を返したのは、ベッドの上のまだあどけなさを残す女の子、入院患者の中里百合だった。
 そしてもう一人――
「先生」
「笠原さん?」
 百合の話し相手をしていたのだろう。女性看護士の笠原がベッドの横にパイプ椅子を置いて座っていた。
 立ち上がろうとした笠原をやんわりと手で制しながら、フィリスは二人に顔を向けて訊いた。
「二人して楽しそうに、何を話していたんですか?」
「ええっと……その――」
 どこか恥ずかしげに言いよどむ笠原。その横で百合がくすくすと小さく笑って、彼女に代わって答えた。
「あのね、おまじない教えてあげてたの」
「おまじない?」
 首を傾げるフィリスにうんと、百合は楽しそうに頷く。
「恋のおまじない。教えて欲しいって言われたから……ね?」
 ちらりと百合は笠原に視線を向ける。釣られてフィリスも視線を横に向け、二人の視線を受けた笠原は、あははと照れ笑いを浮かべた。
「いや、まあちょっと話をしていたらその――――ああ、先生も聞いておいた方が良いんじゃないですか? 今後の為にも」
 そう笠原は含みのある笑みを作る。しかしフィリスはこれを軽い感じで受け流し、
「あら、私も知っていますよ。恋のおまじない」
 得意げに答えた。
「えっ、先生が?」
「わー、どんなの? 教えて教えて!」
 興味深々にフィリスに顔を向ける笠原と百合。フィリスはクスッと笑って言う。
「ええ、いいですよ。とっても良く利く、恋のおまじないです」

 それはとある街の喫茶店。
 美味しい紅茶とケーキが評判のそのお店。
 中でも特に評判のメニュー。
 それは――

〈了〉





 〜あとがき〜

 恐らくはじめましての方ばかりになると思いますので(いい加減だなぁ)
 はじめまして、天田ひでおと申します。

 えー、見て頂けましたら判ります様に、
 匿名希望 様のSS「アップル・パイとシナモン・ティー」
 そして
 KOH 様の「アップル・パイとシナモン・ティー番外編」
 に影響されて書いたSSです。
 いやぁ〜、人様のネタを使って書くのって初めてだったのですが、
 これが書いてる方も結構楽しかったりと(笑

 あっ、冒頭でも書きましたがちゃんと匿名希望 様のご許可を頂いております。
 まぁ……実際には書き終わってから「許可下さい♪」と、半ば強引に頂いたのですが、
 それはそれという事で(ぉ

 こんなヤツではございますが、
 出来ましたらこれからもどうぞ宜しくお願い致します。

 恭也×フィリスは好きだけど、恭也×フィアッセはもっと好きな 天田ひでおでした(笑
 では〜☆


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