『折原家の育児日記 3』


匿名希望さん 作



 どこまでも高く、澄み切った秋空。
 雲ひとつ無い天候とは逆に、留美の表情は曇りきっていた。

 「は〜…」
 なにやら数字の書いてあるノートを見て、何度目かのため息。
 最初は、TVのお笑い番組等見て、ケタケタ笑っていた浩平も、さすがに無視できなくなってきて、TVを消して訊ねる。
 「そんなため息ばかりついて、どうした?」
 「増えないのよ。」
 「は?」
 「だから、増えないのよ。」
 肝心の主語が抜けていた。
 数字が書かれたノートを見ていたことを思い出し、あてずっぽうで聞いてみる浩平。
 「貯金か?」
 「ん〜、まぁ、それも増えないけど。」
 「そりゃ、給料が増えないんだから、仕方ないぞ。」
 「うん。だから、それはあきらめてる。」
 肩をすくめて、あっさりと答えた留美のひとことが浩平に突きささる。
 「…。体重じゃないよな。どう見たって増えてるし。」
 妻を上から下まで一瞥した後、こう突っ込んだ浩平に罪はあるまい。

 ぶぅん。
 手近にあった厚さ5センチの育児書の角が、音を立てて浩平の頭に振り落とされる。
 がっつん。
 「ぐぉぉ〜。」
 意味不明の言葉を吐きながら苦悶している浩平を他所に、何事もなかったように話を続ける留美。
 「増えないのよ、留華の体重って、聞いてる?」
 「ぐぐぐ〜。」
 まだ、苦悶していた。

 「聞いてる?」
 やっと復活した浩平に、留美は再度問いかける。
 「あ、ああ、聞いてるぞ。」
 「普通、この月齢ならもう少し体重の増加があるべきだって本に書いてあるんだけど…」
 つまり、育児書に書いてあるより、娘の体重の増加が少ないことが気になって朝からため息をついていたらしい。
 「やたら機嫌も良いし、それなりにおっぱいやミルクも飲んでるし、どこも悪い様子は無いんだから、別に良いんじゃないか?」
 「そうなんだけどね…」
 なおも心配そうな留美。

 初めての育児は、不安だらけである。
 全て育児書のとおりというわけにいかない事も理性ではわかっている。
 けれど、それでもちょっとしたことで、もしかして何か重大な病気の前兆なのではないかと気になってしまうものなのだ。
 「ただでさえナーバスになっているのに、無神経なこと言うし。」
 「…悪かった。」
 ちょっぴり理不尽な気がしないでもないが、素直に謝る。
 「もうすぐ4ヶ月健診だっていってただろう。そこで聞いてみたらどうだ。」
 「そうね。あれこれ悩んでても仕方ないし。」
 拍子抜けするほどあっさりと賛成する留美に、やはり、理不尽な思いが残る浩平だった。

 数日後。
 浩平と留美は、留華を連れ、近所の小児科医を訪れていた。 

 「折原留華ちゃん、診察室へどうぞ。」
 名前を呼ばれ、診察室へ入る。

 体重、身長、頭囲、胸囲等を測定の後、小児科医による発育のチェック。
 そして、問診。

 「何か、心配事などはありますか?」
 個人で小児科を開業しているその医師は、病気の子どもも安心させるような穏やかな雰囲気の初老の男性だった。
 
 「実は、体重の増えがあまりはかばかしくなくて。」
 そうきり出した留美の傍らに立つ浩平が、ちゃちゃを入れる。
 「といっても、妻の体重じゃないですよ。」
 
 だんっ。
 椅子に座って留華を抱いた留美の足が、やたら重たげな音とともに浩平の足の小指を直撃する。

 声も無く足を抱えて飛び跳ねる浩平。
 あくまで、初めての子どもの発育ぶりを心配する母の表情そのものの留美。
 医師として積み重ねてきた年月で、内心の動揺をおしころす小児科医。

 ばさばさばさ。
 その奇妙な緊張感に耐えかねた年若い看護婦が、抱えていた次の患者のカルテを落としたのも無理は無かった。
 何がおかしかったのか声をあげて笑う留華。
 やはり二人の子どもである。

 「ふむ。」
 何事も無かったように、留華のカルテの内容をチェックする医師。
 やがて。
 固唾を飲んで回答を待つ留美に、拍子抜けするほどあっさりと答えを返した。
 「発育は正常ですし、身長や頭囲も標準です。体重は、確かに出生体重からすると、あと900gぐらい増えていてもよいのですが、特に、具合の悪いところも無いですね。」
 「じゃあ、どうしたら?」
 「通常、離乳食は5ヶ月ぐらいからですが、留華ちゃんの場合は少し時期を前倒しにして、もう少し早めに始めてもよいと思いますよ。ミルクや母乳であまり体重が増えなくても、離乳食になったら増えたという赤ちゃんもいますしね。」

 その後、2、3のアドバイスを受け、診察室を出る浩平たち。
 看護婦達の視線が、心なしか痛かったような気もするが、ひとまず、留美の不安は解消されたようである。

 「そっか、大丈夫なんだ。」
 「ま、医者がどこも悪くないって言うんだから、そう神経質にならなくても良いんじゃないか?」
 「そうね。子育ては、マニュアルどおりにいかないものね。」
 「ああ。それに…」
 留美の腕に抱かれた留華の顔を見る浩平。
 「当の本人が、こんなにご機嫌なんだしな。」
 視線が合うと、にっこりと笑い返す留華の様子に、自然、留美の表情も柔らかくなる。
 平和で幸せな親子の図、そのものだった。

 …その日の夕方までは。

 「そういえば、ここしばらく留華のことばかりで、自分の体重ってはかってなかったっけ。」
 先日の浩平の一言が、妙に気にかかる。

 「……」
 目の錯覚かもしれない。

 「……」
 疲れてるのかもしれない。
 ありもしない数字が見えるし。

 ありったけの息を吐き出して、片足ずつそっと体重計にのる。
 「……ふ、増えてるぅぅ!!」

 事実だった。
 それも、とびきり冷酷な。

 天高く、留美肥える秋。
 食欲の秋。
 まだまだ体重にまつわる悩みは、つきないようである。

 「誰か、嘘だと言って〜!!」
 
 
 
 
《続く》    《戻る》 inserted by FC2 system