匿名希望さん 作
彼女は苦悩していた。
目の前で起こる事態を、どうしても理解できずに。
「尺取虫…だな。どう見ても。」
「…。」
遠慮がちに、浩平がつぶやく。
しかし、留美は沈黙したままだ。
息苦しい程凍りついた空気を、気にする様子も無く、それは動き続ける。
ずり、ずり。
異様な音をさせながら。
そして。
ついに、壁に突き当たったそれは、抗議するように。
「だぅぅ〜!」
と、声を上げた。
「どうして、ね、どうして、背面で移動するのよ!?」
「いや、どうしてって言われても。」
「どこにも書いてないわよ、赤ちゃんが背面で移動するなんて!!」
数冊の育児書が、テーブルの上に散らばっている。
そのどこにも、記載されていない事態に浩平と留美は戸惑っていた。
しばらく前から、やたらと足で床を蹴る動作をしているなぁ〜と思っていた。
やたらと頭を床にこすりつけるなぁ〜とも思っていた。
…まさか、このための準備だったとは。
後頭部と足を使い、背中を曲げては伸ばし、曲げては伸ばし。
その姿は、確かに尺取虫のようだった。
「寝返りはするし、次はハイハイだって思ってたのにっ!」
「ま、まぁ、何事も育児書通りにはいかないってことだ。」
「それは、まあ、わかってるけど…。育児書に載ってないし、留華だけってことは。」
「それは、さすがにないだろう。」
つぶやく浩平の脳裏に、浮かぶ文面。
『成長の途中で、赤ちゃんは背面のまま移動することがあります。
まるで尺取虫のようですが、心配は要りません。
その姿を、可愛らしく思いながら、これも成長のひとつの過程なのだと暖かく見守って上げて下さい。』
思わず吹き出しそうになる浩平。
かろうじてこらえたのは、真剣に留華を心配している留美の様子に、さすがに茶化すのは憚られたのと。
過去、こういう場面で、うっかり思ったとおりのことを口に出して、どんな目にあったかを思い出したからで。
…多少は、学習能力があったようである。
ともあれ、内心の葛藤を乗り越えた留美は、抗議の声を上げながら手足をばたつかせている留華を抱き上げる。
…信じられない光景が、そこにあった。
「は、ハゲ。」
「誰がよっ!!」
即座に突っ込む留美。
「ま、待て、留美じゃない!留華、留華の後頭部だっ!」
一瞬の沈黙。
「ええっっ〜!?」
当然といえば当然なのだが、後頭部を基点に移動するということは、そこが床とより多く接するということであり。
摩擦により磨り減っていくものがあった。
すなわち。
生えかけたばかりの、柔らかな留華の髪の毛である。
「後頭部が禿げている…。」
呆然と呟く留美。
「後頭部が禿げている…後頭部の禿げた子…」
ブツブツ口の中で呟く浩平。
ぽんっ。
ひとつ手を叩いて。
「よし、これからお前を、後頭部禿げ子と呼んでやろう!」
「やめんかぁ!」
どげしっ!
抱きかかえた留華で両手がふさがっている留美の、渾身の蹴りが炸裂する。
「ぐぉぅっ!」
声にならない怪しげな声を上げて、床に崩れ落ちる浩平。
…学習能力はなかったようだ。
「きゃあうぅ〜!」
あいかわらずの漫才夫婦に、ご機嫌な留華であった。
「さて、と。」
いち早く立ち直った留美は、かねてからの計画を実行しようとしていた。
すなわち、留華の散髪計画である。
と聞くと、なんだか物凄い計画のようであるが、何のことは無い。
延び過ぎて目にかかるほどになってきた留華の前髪を、眉毛にかからない程度に切りそろえるだけのことである。
「留華の機嫌もいいし、今日は暖かいから、切りおわったあと、軽くお風呂に入れるのにもちょうどいいし。」
何事も無かったように、準備し始める留美。
フローリングにうつぶせに倒れたままの浩平。
…その背中が、すこしだけ悲しい。
床の上にビニールをひいて、留華の首にバスタオルを巻きつける。
一人で座れるようになってきたとはいえ、どんなことが起こるかわからないので、留美が背後からそっと抱きかかえる。
「なんか、不安なのよね。」
「何がだ?」
「妙に嬉しそうだから。」
機嫌よくはさみを持っている浩平の姿に、不吉なものを覚える留美。
「仕方ないだろ、俺が留華を抱いてると、暴れるんだから。」
「うん、そうなんだけどね…。」
仕方ないとわかっているが、わきあがってくる不安は消せない。
「まかせとけって。こう見えても、こういうのは得意なんだ。斬新な髪型にしてやる。」
「斬新な、ってとこがよけいに不安なんだけど。」
「大丈夫だって。それより、しっかり留華を支えててくれよ。途中で動いたら、いくら先の丸いはさみだって危ないからな。」
「わかってるわよ。」
会話はそれで締めくくられて。
シャキ、シャキ。
しばらくは、髪を切る音だけが静かな部屋に聞こえていた。
「できた〜!って、あれ?」
「あれって何よ、あれって!!」
慌てて留華の顔を覗き込む留美。
「っっ!!」
絶句。
眉毛の上、3センチできっちり切り揃えられたその姿は。
まるで。
金太郎人形のようであった。
「…まさかり、かつがせてみるか?」
「馬鹿ものぉぉ!!」
本日2発目の蹴りが炸裂する。
…留華の髪の毛が舞う中で。
この日、たまたま訪れた留美の両親には、一目見るなり大爆笑された。
「早く伸びてくれないかしら、髪の毛。」
「きゃあぅぅ〜!」
「気に入ってるみたいだぞ。」
「外出のたびに笑われる私の身にもなってほしいわ…」
結局、髪の毛が伸びるまで、外出には必ず帽子着用となった留華であった。
《続く》 《戻る》