「折原家の育児日記 5」


匿名希望さん 作

 彼女は苦悩していた。
 目の前で起こる事態を、どうしても理解できずに。
 
 「尺取虫…だな。どう見ても。」
 「…。」

 遠慮がちに、浩平がつぶやく。
 しかし、留美は沈黙したままだ。

 息苦しい程凍りついた空気を、気にする様子も無く、それは動き続ける。

 ずり、ずり。
 異様な音をさせながら。

 そして。
 ついに、壁に突き当たったそれは、抗議するように。

 「だぅぅ〜!」
 と、声を上げた。

 「どうして、ね、どうして、背面で移動するのよ!?」
 「いや、どうしてって言われても。」
 「どこにも書いてないわよ、赤ちゃんが背面で移動するなんて!!」

 数冊の育児書が、テーブルの上に散らばっている。
 そのどこにも、記載されていない事態に浩平と留美は戸惑っていた。

 しばらく前から、やたらと足で床を蹴る動作をしているなぁ〜と思っていた。

 やたらと頭を床にこすりつけるなぁ〜とも思っていた。

 …まさか、このための準備だったとは。

 後頭部と足を使い、背中を曲げては伸ばし、曲げては伸ばし。
 その姿は、確かに尺取虫のようだった。
 
 「寝返りはするし、次はハイハイだって思ってたのにっ!」
 「ま、まぁ、何事も育児書通りにはいかないってことだ。」
 「それは、まあ、わかってるけど…。育児書に載ってないし、留華だけってことは。」
 「それは、さすがにないだろう。」
 つぶやく浩平の脳裏に、浮かぶ文面。
 
 『成長の途中で、赤ちゃんは背面のまま移動することがあります。
 まるで尺取虫のようですが、心配は要りません。
 その姿を、可愛らしく思いながら、これも成長のひとつの過程なのだと暖かく見守って上げて下さい。』

 思わず吹き出しそうになる浩平。
 かろうじてこらえたのは、真剣に留華を心配している留美の様子に、さすがに茶化すのは憚られたのと。
 過去、こういう場面で、うっかり思ったとおりのことを口に出して、どんな目にあったかを思い出したからで。

 …多少は、学習能力があったようである。

 ともあれ、内心の葛藤を乗り越えた留美は、抗議の声を上げながら手足をばたつかせている留華を抱き上げる。
 
 …信じられない光景が、そこにあった。

 「は、ハゲ。」
 「誰がよっ!!」
 即座に突っ込む留美。
 「ま、待て、留美じゃない!留華、留華の後頭部だっ!」

 一瞬の沈黙。

 「ええっっ〜!?」

 当然といえば当然なのだが、後頭部を基点に移動するということは、そこが床とより多く接するということであり。
 摩擦により磨り減っていくものがあった。

 すなわち。
 生えかけたばかりの、柔らかな留華の髪の毛である。

 「後頭部が禿げている…。」
 呆然と呟く留美。

 「後頭部が禿げている…後頭部の禿げた子…」
 ブツブツ口の中で呟く浩平。
 
 ぽんっ。

 ひとつ手を叩いて。

 「よし、これからお前を、後頭部禿げ子と呼んでやろう!」
 「やめんかぁ!」

 どげしっ!

 抱きかかえた留華で両手がふさがっている留美の、渾身の蹴りが炸裂する。

 「ぐぉぅっ!」
 声にならない怪しげな声を上げて、床に崩れ落ちる浩平。

 …学習能力はなかったようだ。
 
 「きゃあうぅ〜!」
 あいかわらずの漫才夫婦に、ご機嫌な留華であった。

 「さて、と。」
 いち早く立ち直った留美は、かねてからの計画を実行しようとしていた。
 すなわち、留華の散髪計画である。
 と聞くと、なんだか物凄い計画のようであるが、何のことは無い。
 延び過ぎて目にかかるほどになってきた留華の前髪を、眉毛にかからない程度に切りそろえるだけのことである。

 「留華の機嫌もいいし、今日は暖かいから、切りおわったあと、軽くお風呂に入れるのにもちょうどいいし。」
 何事も無かったように、準備し始める留美。

 フローリングにうつぶせに倒れたままの浩平。
 …その背中が、すこしだけ悲しい。

 床の上にビニールをひいて、留華の首にバスタオルを巻きつける。
 一人で座れるようになってきたとはいえ、どんなことが起こるかわからないので、留美が背後からそっと抱きかかえる。
 
 「なんか、不安なのよね。」
 「何がだ?」
 「妙に嬉しそうだから。」

 機嫌よくはさみを持っている浩平の姿に、不吉なものを覚える留美。
 
 「仕方ないだろ、俺が留華を抱いてると、暴れるんだから。」
 「うん、そうなんだけどね…。」
 
 仕方ないとわかっているが、わきあがってくる不安は消せない。

 「まかせとけって。こう見えても、こういうのは得意なんだ。斬新な髪型にしてやる。」
 「斬新な、ってとこがよけいに不安なんだけど。」
 「大丈夫だって。それより、しっかり留華を支えててくれよ。途中で動いたら、いくら先の丸いはさみだって危ないからな。」
 「わかってるわよ。」
 会話はそれで締めくくられて。

 シャキ、シャキ。

 しばらくは、髪を切る音だけが静かな部屋に聞こえていた。
 
 「できた〜!って、あれ?」
 「あれって何よ、あれって!!」
 慌てて留華の顔を覗き込む留美。

 「っっ!!」
 絶句。

 眉毛の上、3センチできっちり切り揃えられたその姿は。
 まるで。

 金太郎人形のようであった。

 「…まさかり、かつがせてみるか?」
 「馬鹿ものぉぉ!!」

 本日2発目の蹴りが炸裂する。
 …留華の髪の毛が舞う中で。

 この日、たまたま訪れた留美の両親には、一目見るなり大爆笑された。

 「早く伸びてくれないかしら、髪の毛。」
 「きゃあぅぅ〜!」
 「気に入ってるみたいだぞ。」
 「外出のたびに笑われる私の身にもなってほしいわ…」

 結局、髪の毛が伸びるまで、外出には必ず帽子着用となった留華であった。


《続く》    《戻る》 inserted by FC2 system