匿名希望さん 作
草木も眠る丑三つ時…よりはかなり前だが深夜と呼ぶにふさわしい時間。
物音一つしないはずの闇に包まれたリビングで、それは密かに行われていた。
物悲しげな音楽。
ほのかに明滅する光。
流れてやまない透明な涙。
かすかに聞こえる嗚咽の声。
そして。
ずずぅ〜。
静まり返った部屋に、盛大に響く鼻をすする音。
「ううっ、やっぱり泣けるわ、このドラマ。」
ぐずる娘をやっとのことで寝かしつけ、夫婦のコミュニケーションを取りたがる夫をなぎ倒し。
土曜日の深夜、留美は思う存分、一人の時間を満喫していた。
普段、あまりTVドラマは見ない(見ている時間もない)留美なのだが、わざわざビデオにとってまで見ている程ハマっているのは、泣けると評判のTVドラマ「冬の追想曲」。
過去に起こった出来事がきっかけで、心に深い傷を負った主人公の青年。
叔母と従妹が切り盛りするペンションで働くうちに、ペンションを訪れる様々な女性との出逢いと別れを経験し、次第に北の静かな街とあたたかい人々の心にふれ、癒されていくというストーリーである。
…どこかで聞いたような気もするが、多分気のせい。
さて、ドラマはそろそろクライマックスにさしかかっていた。
『覚えてないんだね…』
寂しそうに呟く従妹の横顔に、置き去りにしてきた過去がちらつく。
と、同時に今まで見たことのない彼女の一面を垣間見た青年は、わきあがってくる感情に自分自身戸惑いを隠せなかった。
「あ〜も〜、じれったいっ!どうして、この切ない乙女心に気がつかないのよっ!」
留美の乙女心もクライマックスのようである。
「留美〜、真夜中なんだから、もう少し静かにって、うわぁ!!」
もりあがりまくった留美の声に眠りを覚まされた浩平だが、リビングに一歩足を踏み入れた途端、後悔した。
それはもう、心の底から後悔した。
振り返った留美の表情は、百年のなんとやらも覚めて後ずさり。
「へ、部屋の電気はつけて見ないと心臓、じゃなくて目に悪いぞ、うん。」
何とかそれだけ告げると、一目散に部屋から逃げ出した。
浩平が何を見たか。
詳細は留美の名誉のために記さないが。
暗い部屋の中、明かりといえば明滅するTVだけという状況で見てはいけないものだったことは間違いなかった。
浩平をひとにらみで退散させると、泣きすぎて腫れぼったくなってきた目をこすりながら、留美は再びドラマに熱中していく。
「想い出の中に降る雪。
現実に降る雪。
次回『忘却の彼方に』。
過去と現在が交差するその場所で、二人は再び出逢ってしまった…」
「はぁぁ〜。」
これでもかっと言うぐらいに、切なさを盛り上げる音楽に彩られた次回予告が終わると、盛大なため息をつきつつビデオのリモコンを取り上げる。
「いいところで『続く』なのよね〜。あ、そういえば、先々週と先週の余命幾ばくもない少女との淡い恋を描いたお話もよかったっけ。もう一回見ようっと。」
巻き戻して、さらにドラマに見入る。
それから2時間、ドラマの世界を堪能して寝室へと戻る留美。
天使のような寝顔の留華にそっと微笑んで。
なぜか寝室の片隅で布団を頭までかぶり
「何も見なかった、何も見なかった…」
と、小声で何度も呟いてる浩平に首をひねりながらも、留美は満ち足りた気分で眠りについたのだった。
そのおおよそ4時間後。
心地好いまどろみの中にいる留美に、それは音も無く忍び寄ってきた。
ぴた。
「ひぃあぁっ?」
水にぬれた手が、留美の顔に押し付けられる。
「ちぃあ〜ちゃ。」
「って、なんだ、留華の手だったのね。」
いつの間にか起き出した留華が、自分の布団からはい出して、よだれでベトベトの手で嬉しそうに留美の顔をなでまわしていた。
「う〜、今何時?まだ7時前じゃないのぉ。留華〜、お母さん、もう少し眠いのよぉ〜。」
そう呟くと、留華を自分の隣に寝かしつけ、再度眠ろうと試みる。
「だぅあ〜。」
起き出した留華。
ごそごそ、ぺたぺた。
「おねがいぃ、あと10分〜。」
赤ちゃんに説得が通じる訳もなく。
「うきゅあ〜。」
ぺしぺしぺしぺしっ。
起きてくれない留美に腹をたてたのか、さらに激しく留美の顔を叩き続ける。
「う〜ん。」
痛くないとはいえ、ちょっと寝ていられない。
もう一度留華を寝かしつける。
「うきゅ〜。」
しかし、それぐらいで諦める留華ではなかった。
「ちゃぁ〜。」
よじよじ。
留美の頭部に取り付いて、顔へと登り始める。
「うきゃぁ〜。」
登頂成功。
…1分経過。
「ぶはぁっ!」
完全に目を覚ました留美が、得意げに顔に乗っていた留華を引き剥がす。
「はあっ、はあっ、はあっ。る、留華、苦しいから顔に乗っちゃダメっ!!」
にこにこ。
「聞いてないわね…」
休日の朝なのに、理不尽なほど早起きをさせられて。
寝不足の頭を抱えながら、泣く泣く留華のオムツを替え、朝食の用意をし始めるのだった。
「せっかくのお休みなのにぃぃ〜。」
赤ちゃんに、休日も平日も関係はなかった…
程なく、朝食の用意が整った。
すっかり目を覚まして、お腹がすいたとばかりにTVのリモコンをかじる留華のために、御飯とワカメと豆腐のお味噌汁、納豆と卵焼きにお漬物(もちろん、留華にはお漬物は無し)といった簡単な献立。
「浩平は…まだ起きてこないわね。」
ちなみに。
あれから2時間程呟きつづけ、明け方ようやく眠れた浩平がこの時間に起きられるはずもない。
よほど精神的ダメージが強かったのだろう。
「先に食べさせてあげるわね。」
「うきゅうぁ〜。」
ベビー用の椅子に座らせて、テーブルに留華の朝食を並べて。
「留華、いただきますは?」
ぱしっ。
ちゃんと手を合わせたりする。
「ん〜、留華、いい子ね〜。」
しばらくは、穏やかな食事風景が続く。
しかし。
忘れてはいけない。
これは、コメディなのだ。
留美が忘れても、コメディの神様(いるとすれば、だけれど)が見逃すはずもない。
「きゃ〜、留華、お味噌汁に手を入れちゃダメ〜!」
味噌汁だらけの手を振り回し。
「留華、お茶のコップを倒しちゃダメ〜!」
テーブルにお茶が流れ出し。
とどめに。
「な、納豆はやめて、留華っ、おねがいっ!!」
願いもむなしく、宙を舞う納豆。
朝日にきらきらと光る納豆の糸は、いっそ綺麗だった…かもしれない。
にこにこにこ。
「留華ぁぁ…」
頭から納豆をかぶってご機嫌の留華とは反対に、ものすっごく憂鬱な留美だった。
「はぁぁ〜。」
同じため息でも、昨夜のとはまったく違うため息をついて、散らかったテーブル周りを片付けようとかがんだ瞬間。
がっつんっっ!!
あ、流れ星が…な訳はなく。
かがんだ留美のこめかみに、留華のおでこがクリーンヒット。
目から火花が散るとは、まさにこのことで。
「ぐっっ!」
うめきながら椅子へと座り込むが。
がったんっ!!
ごいんっ!!
バランスをくずした留美は、素晴らしく派手な音を立てて椅子ごと後ろへひっくり返り、後頭部強打。
「な、なんだ、地震か、この世の終わりか?」
さすがに眠っていられなかったらしい浩平が、ダイニングに飛び込んでくる。
多少寝ぼけているようだが。
「一体何が起こったって言うんだ。」
呆然と呟く浩平。
床の上には納豆と味噌汁が散らばり、その二つの匂いが交じり合い、異臭となって漂うリビング。
椅子ごと仰向けに倒れ、気絶している留美。
子供用スプーンを振り回し、ご機嫌な留華の頭には、糸をひきまくった納豆がたっぷりのっていて。
「…誰が片付けるんだ、これ。」
周りを見る。
ご機嫌の留華。
白目をむいている留美。
…浩平しかいない。
気絶した留美を助け起こし、二人で部屋を片付け、留華をお風呂に入れて。
平穏な休日を、何とか取り戻したころには、お昼をまわっていた。
「それにしても。さすが、というか何と言うか。」
「何が?」
「いや、血は争えないって言うことだ。」
「…それって、どういう意味よ?」
部屋の気温が下がっているような気がする。
…このあたりで気づくべきである。
が、やっぱり気がつかないのが、浩平の浩平たる所以。
「一撃必殺。さすが、熊殺しの七瀬の血をひく者って、待て、落ち着けって、ぐわっ!!」
…前言撤回。
平穏な休日を取り戻すことはできなかったようである。
<後書き>
ああ、やってしまいました。
ごめんなさい、ちょっと今回遊びすぎました(汗)。
でも。
書いてて一番楽しかったのは、ドラマの部分だったりして(爆)。
《続く》 《戻る》